21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.3] 宮城・野蒜築港跡 資料編

コーネリス・ヨハネス・ファン・ドールン Cornelis j.Van Doorn(1837〜1906)

 オランダのブルメル市で牧師の子として生まれ、デルフト工科大で土木工学を学ぶ。インドネシアの鉄道工事、北海(バルト海)運河の初期工事に従事した後、日本政府に招かれ明治5年(1872)に技師長として来日した。35歳の若さであった。
 来日後の仕事は、国内の重要な河川の改修計画と河口に新しい港を構築するための計画の立案である。このため精力的に全国を調査して歩いた。利根川と淀川に日本で最初の量水標を設けるなど、日本の治水事業に科学的な手法を導入したことは特筆される。しかも、当時世界最高水準といわれたオランダの水理工学をベースに、これを日本の治水工事に応用できるよう3冊の指導書を著し、日本に近代的な治水技術の基礎を植えつけた。
 ドールンの仕事で野蒜とともに並び称されるのは、安積疏水の計画と設計である。これは福島県の猪苗代湖から郡山周辺の平野を灌漑用の水路で結んだもので、幹線水路52km、分水路78kmにもなる工事だった。明治12年(1879)に着工、地元の人たちの手で掘られ、3年間をかけて明治15年(1882)に完成する。これにより3,000haの荒地が水田や畑に生まれ変わった。取水口にはドールンの銅像が建てられているが、これは第二次大戦中の金属供出の際も地元の人々によって守りぬかれたものである。
 明治13年(1880)の帰国までの8年間に日本の土木事業に多大な貢積を残し、日本の近代的河川工学や港湾工学の父と呼ばれる。

大久保利通(1830〜1878)

 野蒜港の実現には、明治政府の実力者である当時の内務卿大久保利通の力が大きい。大久保は明治4年(1871)に東北を視察、地元の強い要望もあり、東北振興の国家事業として野蒜を核としたプロジェクトを打ち出す。そして、実施調査を命じて以来、つねにドールンを支援し続けた。その関係は、「ドールンは政府の最大の実力者である大久保のために来日した」との指摘もあるほどである。
 大久保が国家的プロジェクトを打ち出した背景には、新政府の誕生とともに特権と職を失った武士に、いかに仕事を与え生活を保障するかという課題があったといわれる。武士の不満を解消するための手だてが、港をつくって交通の便を高める、あるいは疏水をつくって荒地を開墾するという大規模工事だったのである。
 大久保が打ち出したプロジェクトの多くが水に関係しており、河川や港湾技術に秀でたドールンに通じるものがある。

粗朶沈床工法

 野蒜で注目される技術の一つであり、築港の最大の難工事といわれる突堤に採用された。粗朶沈床とは、柴などの間伐材を結束し、これを何層にも組んで水中に沈め、石を投入して安定させる工法である。ケレップ水制と呼ばれ、主に河道を整える突堤の基礎工法として発達した。
 野蒜の突堤では粗朶沈床を基礎工としてだけではなく、突堤の本体部分にも使用した。沈床の厚さは約1m。3〜5層を海面以下に積み並べて突堤上部を構築した。粗朶沈床は最大で幅36m、延長17m、最小は幅12m、延長9.9mである。
 しかし、それでも激しい波で沈床が流出することが判明した。このため幅1.2mの間隔に長さ平均6.3mの杭を3〜5列に打ち込んで梁木を載せたり、腐食防止のため杭と梁木を銅板で覆う、内部に割栗石を充填する、沈床の設置高さを海水面から2.1m以下におさえる、といった設計変更が試みられる。だが結局は、明治17年(1884)の台風で消失し突堤が壊れた原因とされた。
 野蒜では不本意な結果に終わったが、粗朶沈床はエッセル堤にも使われた。その後河川改修で採用され社会資本整備の一翼をになう。近年では、人々と河川との接点を取り戻す手法として再び注目され始めた。

粗朶沈床組立イメージ図

蒸気式浚渫機

 オランダから購入された蒸気式浚渫機がいかに優れた能力をもっていたかは、当時の作業賃金比較でよくわかる。蒸気式の場合、8時間当たりの浚渫量は180㎥以上。1立方坪(約6㎥)当たりの作業賃金は14銭7厘である。これに対して手動式は8時間で54㎥以上の能力で、1立方坪当たりの作業賃金は23銭3厘。また伝統的な鋤簾引きは時間に関係せず水深によって作業賃金は異なり、35銭から52銭5厘となっていた。
 それぞれの方法に長所短所はあり、施工条件などに応じてこうした方法を使い分ける。機械式浚渫機はスエズ運河で工事途中の1865年から採用されていた。野蒜ではこの情報を得て採用されたといわれる。

浚渫量と工事費

 総浚渫量644,400㎥のうち、運河や開鑿工事で258,900㎥、新鳴瀬川で60,700㎥、船溜り工事で372,700㎥。工事費は新鳴瀬川で 58,484円、船溜り工事で22,780円、さらに船溜りの浚渫土を使った市街地の埋立工事は95,850円であった。

北上運河・東名運河

 野蒜はたんに港の構築だけでなく、東北の大部分をヒンターランド(後背地)にするというスケールの大きなプランの中で計画された。その一翼をになうのが北上運河と東名運河である。
 北上運河は、東北の大動脈である北上川を野蒜と結ぶもので、鳴瀬川の河口部分を浚渫して船溜りをつくり、浚渫土は新旧の鳴瀬川間に土地造成に使われた。野蒜の築港は、まず北上川の石井閘門と運河の開削から始まる。明治11年(1878)のことだった。
 だが工事が進むうちに港への土砂の堆積が激しく、将来は水路として使えなくなる危険性が指摘される。そこで当初の設計にはなかった東名運河が計画される。松島を通り阿武隈川と結ぶもので、宮城県の手で明治15年(1882)に着工された。

突堤

 突堤の左右には水底から堤頂まで捨石が3割〜3割5分の勾配で投じられた。堤頂は半月状に築造する。公文書によると使われた石の大きさは堤頂が0.42㎥〜0.83㎥。捨石は水底の方で1.7㎥〜2.0㎥、堤頂に近くなるにしたがって5.6㎥〜9.7㎥の巨石が採用された。その間は割栗石などで充填するという手法が採用された。海上における石の運搬には、伝統的な石釣り船が使われている。幻の港となった突堤の崩壊のメカニズムは、島崎武雄氏(地域開発研究所)らが推定している。

「直轄土木取調書 第2輯」記述より再現した突堤断面(宮地豊氏らによる)

野蒜築港図(出典:「日本築港史」)