21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.4] 東京・品川台場

江戸の職人芸が生きた近代前夜の人工島

 東京のウオーターフロントを代表し、観光名所にもなっている「お台場」。その名前は幕末に江戸を守るために構築された人工島「品川台場」に由来する。お台場の「台」とは砲台の「台」であり、日本初の近代的な海上要塞であった。東京湾内に計12基(御殿山下を含む)が計画される。比較的静穏で水深も浅いとはいえ、現代とは比較にならない技術力の当時、海上での工事は規模や技術面においてそれまでとは比較にならない難しさをともなったはずだ。わが国の海洋土木技術が初めて挑戦する領域だったといえる。だがその難工事を江戸の技術者たちは着工からわずか9カ月で完成させ、埋立土量が合わせて48万㎥を超える6つの台場を誕生させた。そこに投入された技術の内容は今日にも通じるものが凝縮されており、その経験は明治に入って日本の近代化にも少なからず影響を与えたものとみられる。

 黒船の来航に象徴されるように、開国を要求する外国に対していかに国を守るかは、幕府にとって緊急の課題であった。全国に海岸防備のための砲台が設置される。江戸を守るための最前線として計画されるのが品川台場である。

 計画の中心となったのは、砲術教授であり海防廟議に参加していた江川太郎左衛門英龍であった。江川の当初の台場築造案をみると、台場を南品川の漁師町から東北方面の深川須崎にかけて、連珠のように二列に並べている。海上に11基、漁師町の海岸(御殿山下)に1基という計画だった。ただし着工したのは第7台場まで。財政難により完成までこぎつけたのは第1、第2、第3、第5、第6、さらに海岸の御殿山下台場(のちの第4台場)の6つの台場にとどまった。

 台場は五角形に近い平面形状だ。1辺は大きいところで122m(第4・第6)から177m(第3)。面積ではいくつかのデータがあるが、江川が設計した当時の築造計画によると、19,220㎡(第4)から33,960㎡(第1)である。

 人工島の造成には、松の丸太で杭を打って梁を架設したうえで井桁を組むという伝統的な基礎工法が採用された。その上に台場をめぐる石垣を組み海底に敷石を敷設、内部を土砂で埋立てる。機械ではなく人力、工学にもとづくというより職人芸。江戸時代の技術者たちの心意気が伝わり、現代の人工島建設にもつながるような工事である。

 構造の一端は、東京港の航路障害のため昭和31年(1956)から撤去された第2台場の解体工事から詳しく推察することができる。撤去工事中、台場の石垣の内側で群列基礎杭の木材が発見されたのだ。杭と杭との間には、かなり大きな割栗石が挟まれていた。群列基礎杭の木材の末口は約20cm、長さは2.6m程度。9〜12本打ち込まれて一群を形成していた。その上に断面が20cm×30cm(最大)、長さが最大で4mの角材が切り込んで組み合わされて載せてある。そして直径50cm程度の丸太が垂直に立ち、隙間に割栗石を充填して土砂を積み重ねていた。すなわち、群列基礎杭を中心にしながら周囲に土砂を投入したあと、基礎を固めて築造されたものと推定されるのである。

 石垣は工事でもっとも重視された部分である。基礎の石垣の下には間知石を支える角材が二段に敷かれ(十露盤敷)、その角材の下には杉丸太が二列に並んで打ち込まれていた。さらに間知石の裏側には割栗石が隙間なく詰め込まれ、内側の土手には土を積み重ねてあった。さらに石垣から3、4間先の範囲まで土丹岩が築かれ、一間ごとに松丸太を打ち込んで枠を構築、表面は亀張石で覆い、土砂の流失を防止していた。

 計画された12の台場のすべては入札に付され、大工棟梁の平内大隅らが落札した。まず第1〜第3までが嘉永6年(1853)8月に着工、翌年の安政元年(1854)5月に竣工する。したがってわずか9カ月という短工期で完成させたことになる。安政元年(1854)1月には第4〜第7台場と御殿山下台場も着工している。しかし財政難から第4と第7台場は工事半ばで築造を断念、第5、第6台場、御殿山下台場が完したのは同年12月のことだった。こちらも工期約10カ月という短工期である。第8台場以降は結局、未着手のままに終わった。

 埋立水深が2.7mから3.6mだったとはいえ、面積が最大33,000㎡、容積が152,000㎥(いずれも第1台場)という規模は、かつて経験のない人工島構築だった。使用した松の丸太は関東地域全域、石材は相模・伊豆・安房から搬入、埋立土砂は品川御殿山と高輪泉岳寺の山を崩して運んだ。それらの作業には人夫5,000人、土砂運搬船2,000隻を動員し、昼夜を問わずに工事が進められたという。

 東京湾内にはいま第3と第6台場が残り、かつての要塞からウオーターフロントを彩る景観の一つとなった。江戸時代の技術者たちの技を伝える遺産である。

写真撮影/西山芳一