21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.5] 神奈川・象の鼻防波堤

開港以来の港ヨコハマの発展を見守る

 安政6年(1859)、徳川幕府はついに300年近くにわたる鎖国をとき、横浜・函館・長崎において貿易が開始された。なかでも江戸に一番近い横浜は、最も重要かつ大きな西欧文化導入の拠点となり、日本の近代化とともに成長していく。現在の山下埠頭と新港埠頭に挟まれた大桟橋のある場所には、石積みの2本の突堤(防波堤)が築かれ、税関も設置された。ここを起点に近代貿易港としての横浜港の発展が始まる。明治20年代末に現在の横浜港の基本形ができあがる40年近くも前のことである。突堤は明治に入って波止場としての機能を強化するため弓形に延長され、その形から「象の鼻防波堤」と呼ばれるようになった。近代化とともに大型の港湾施設に主役を奪われ現在では隠れた存在となり、建設などに関する資料もあまり残されていない。だが、開港以来140年もの長きにわたり横浜港を見守ってきた重要な港湾遺産の一つで、いまも大桟橋の根元にその姿をとどめている。

 象の鼻防波堤は、安政6年(1859)の開港に合わせて設けられた2本の石積み突堤が原型である。当時は直線上に沖合にのびていた。東側を外国用、西側を国内用の物揚場とし、中央には税関となる神奈川運上所が置かれる。

 明治初期になると、波止場としての機能を高めるのと同時に2つの突堤の間を船溜りとして活用するため、東側突堤が弓形に延伸された。この弓形にした形状が象の鼻に似ていることから、その後は「象の鼻防波堤」という名前で呼ばれるようになる。明治元年(1868)の地図には、大きく湾曲した東側突堤が描かれており、この段階で象の鼻は完成していたものとみられる。税関以外にいくつかの港湾関係施設も設置されており、その後しばらく日本の表玄関としての役割を果たした。

 だが、これらの港湾施設は小規模なものであることは否めず、大型の船舶を接岸させるにはどうしても限界があった。そこで新しい築港計画が浮上する。明治5年(1872)の新橋・横浜間の鉄道開通による横浜の隆盛もそれに拍車をかけた。 

 紆余曲折の末、築港の計画を手がけることになったのは、イギリスの工兵少将(退役)ヘンリー・S・パーマーであった。港のシンボル的な施設として大桟橋が計画される。大桟橋は長さ730m、幅19mの大きさを誇り、象の鼻防波堤の直線部分をまっすぐ沖合に延伸するように建設された。明治27年(1894)に完成する。

 大桟橋の工事にともない、象の鼻防波堤の拡幅工事も行われた。現在残されている象の鼻はこの拡幅した後のものと考えられている。明治34年(1901)の地図には大桟橋が築かれ、拡幅後とみられる象の鼻防波堤も描かれている。したがってこのときまでには完成していたのであろう。防波堤の内側には、いまもスロープとともにレールの跡が残っており、ここで荷揚げ作業が行われていたようだ。

 ところが物揚場としての象の鼻防波堤の機能は、大正12年(1923)の関東大震災で致命的ともいえる損傷を受けてしまう。全体的に沈下し、岸壁との接合部は大きく崩壊してしまった。現在の象の鼻防波堤をみると、満潮時にはほぼ水没してしまうので、1m以上は沈下したものとみられる。コンクリートブロックによる改修も試みられたが、港湾機能の変化により物揚場としてよりも防波堤としての機能が優先されるようになった。先端には灯台も設置されたが、第二次世界大戦後、貿易が復活した昭和30年代後半には、小型船の往来が激しくなったため灯台は撤去され、現在の姿となる。

 横浜港が真の意味で国際貿易港としての機能をもったのは、パーマーによる築港計画であり、明治22年(1889)に着工し明治29年(1896)に完成して以降のことだ。パーマーは築港事業の前に横浜で日本初の近代的な水道建設を指導し、横浜にとって「水と港の恩人」といわれる功労者である。その築港計画は、確かに今日の横浜港の基本となった。だが、安政6年(1859)に開港した横浜港を一世紀半にわたって見守ってきた港湾施設は、唯一「象の鼻防波堤」だけであり、港ヨコハマの成長を見つめ続けてきた生き証人である。

 開港当時の横浜港の港湾施設の姿をどどめる象の鼻防波堤は、港湾土木の歴史上で貴重だ。だが残念なことにその建設に関する資料はあまり残されてはおらず、学術的な研究もそれほどされてはいない。復元整備計画もあるだけに、これから本格的な調査研究が待たれる遺産である。

写真撮影/西山芳一