21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.9] 広島・御手洗港 資料編

埋立と浚渫

 御手洗は埋立によって発展した町である。狭い土地だから敷地は不足し、江戸時代から埋立が行われてきた。それらの多くが、町民自らの手になる点が特筆されるところだ。現在の恵美須神社付近も埋立によってつくられた土地である。

 埋立ててつくった町だから、波を防ぐための護岸は不可欠だった。石垣の護岸は、港ができるのに合わせて構築されたものとみられる。雁木はこの石垣護岸に設けられたものだ。埋立が進めば、護岸はそれに合わせて海側に移動しなければならない。石は島の外から運んだものと考えられ、石材の調達も含めて、護岸工事はかなりの難工事だったようだ。

雁木

 潮の高さに関係なく船から積み下ろしができる階段状の物揚場。瀬戸内海をはじめとする潮の干満の大きな地域の港に見られる港湾構造物である。江戸時代の和船の船底が曲面形であったことを利用し、水面が潮汐で昇降しても水際近くまで船を接岸することができた。

 御手洗港は、大きく北側の内港と南側の外港にわけることができる。もともとは北側の恵美須神社前付近が港の中心で、恵美須神社の前には現在でも一番大きな雁木がある。雁木は最大の船着場かつ物揚場だった。御手洗の商業の生命線であり、たびたび台風で被害を受けるがそのつど、修復されている。船の大型化に比例するように規模も大きくなっていった。

 ところが千砂子波止の築造によって、港の主要機能はしだいに住吉神社前に移っていく。波止によって南風でも住吉神社前での停泊が可能になったためだ。

 千砂子波止は御手洗港で最大の工事といえ、海岸線の埋立に加え雁木もつくられた。ただし現在はコンクリート製の階段と住吉神社前の石貼りによる階段状の施設に変わっており、当時のものではない。

重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)

 「重伝建」は文化庁が推進している制度で、この指定を受けると計画的な街並みの保存・再生が進められる。年間7〜10件程度のペースで伝統的建造物の修理、修景事業が計画的に実施されている。

 御手洗は平成6年(1994)に「重伝建」に選定されたのを受けて、街並みの保存と再生が始まった。港で発展してきた御手洗の経済は、汽船の就航や鉄道の発達で急速に停滞する。その後、大きな変革の波を受けることもなかった。結果的に、これが近世・近代に形成された町の形態や建造物群の保存に結びついている。

施設の分布
(出典:「御手洗地区保存再開発調査報告書」)

千砂子波止略図
(出典:「瀬戸内御手洗港の歴史」)

千砂子堤断面図(出典:「瀬戸内御手洗港の歴史」)