21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.14] 鹿児島・一丁台場/新波止 資料編
歴史的防波堤
鹿児島港の歴史は、いまから約650年前に始まるといわれ、慶長7年(1602)に18代島津家久が鶴丸城に居を構えてから急速に発展していった。現在も往時の姿を見ることができるのは一丁台場と新波止だけだが、軍事的な意味もあり藩政時代から数多くの波止(防波堤)や雁木(岸壁、物揚場)がつくられてきた歴史がある。
記録によると、南から北側に向かって屋久島岸岐(文政年間)、弁天波止(寛政年間ごろ)、新波止(天保・弘化年間頃)、三五郎波止(天保年間ごろ)といった名前が見られる。また弁天波止と新波止の間につくられた一丁台場は明治5年(1872)と建設は新しいが、それより前に弁天波止の北端から伸びる防波堤があり、「たでば岸岐」と呼ばれていた。すなわち船を修理する場所である。
これ以外にもいくつもの港湾施設があり、歴史的な港湾施設の宝庫といっていいほどの景観を形成していた。
改修
近代に入ってからだけでも、明治の大改修(30年代)や大正・昭和の大改修(大正12年から昭和9年)など大掛かりな改修を経験し、港の景観は様変りしていく。
加えて台風災害も港の機能に大きな影響を与え、そのたびに復旧が繰り広げられてきた。
なかでも昭和26年(1951)のルース台風は、新波止と三五郎波止に壊滅的な被害を与えた。石積みの波止はその後復旧され平成の時代に入ると、この石積み防波堤を保存活用した緑地整備が行われ、現在見られる景観を形成する。
肥後(熊本)の石工である岩永三五郎の名前を冠した三五郎波止の名前は今はないが、岩永の名前は彼がつくった数々の石橋などとともに、港の近くにある石橋記念館に残されている。
一丁台場・新波止平面図