21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.15] 長崎・お船江跡 資料編

重要文化財級の施設

 船渠の幅は広いところで10m近く取られており、大型の木造船にも対応できる規模を備えている。4基の突堤には高低差が認められ、左右から効率的な作業が可能な構造だ。お船江を囲むように石垣がつくられており、引き込み水路の外側には導流堤が設けられている。

 対馬藩は多くの船を所有していた。これらの船が航海から帰って次の航海までの間、この船江に入渠して船体を手入れしたわけだ。もちろん干潮時には内部は干上がるように設計されている。陸上には船大工や水夫たちの住居があった。

 近世、海に面した各藩は、大なり小なりこのような施設をもっていたはずであるが、現在これほど原型を保存しているところは全国に他に例がないという。文化庁はこれを重要文化財と認めているが、まだ指定はされていない。

お船江跡平面図
(出典:「対島藩主お船江跡石垣調査報告書」)

宗 義真(1639〜1702)

 お船江を築造したのは、対馬藩の第21代藩主・宗義真(そうよしざね)である。義真が治めた35年間(1657〜1692)は、いわば宗家の黄金期であった。とくに土木事業によるインフラ整備や産業振興を図った点が特筆される。お船江の前には阿須川を開削、さらに銀山の採掘も手がけた。なかでも 義真最大の業績といわれるのは、大船越瀬戸の開削だ。

 島の中央部にある浅茅湾は、西側は朝鮮海峡に通じるが東側の日本海に通じる水路がなく、それまでは船の荷物をいったん降ろし船をひいて丘を越えるという苦労をともなっていた。そこで義真は開削により日本海側への水路を確保したのである。

 開削した長さは約250m、幅約50m。4期にわたりのべ35,000人を動員した大工事で、寛文12年(1672)に完成した。

 義真は、日本で初めて小学校を設置するなど教育に情熱を注いだことでも知られる。