21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.16] 滋賀・海津浜石積 資料編

波除石垣

 琵琶湖北部は、山地が湖に沈み込んでできたおぼれ谷の地形をしており、リアス式の湖岸を形成している。かつては淡海(おうみ)などと呼ばれ広大な面積をもつ琵琶湖は、近江の人々にとって海そのものであり、当然のように港もつくられた。海津浜石積は、風雨のたびに水害を受けたこの地域の人々の苦労を見かねて、西与市左衛門が海津東浜の代官である金丸又衛門と協議して建設した湖岸波除石垣だ。そういう意味では港湾施設とは異なるかもしれないが、港の機能も十分果たしており、石積みのおかげで水害もなくなった。村人たちがその業績をたたえた碑が西浜連光寺に残されている。

自普請

 石積みは、災害により何度も被害を受けて修復された歴史をもつ。とくに宝永5年(1708)の暴風雨では、湖の水位が2mも上昇したと伝えられる。崩れた石積を修理するため、正徳2年(1712)に村人らが代官に石積の修復を願い出た記録があり、そこには石を自分たちの手で積み上げて普請するから、必要代金をもらいたいという切実な声があがっている。

 このあとも何度も石積は崩れた記録が残っているため、現在のものがいつ頃のものかは明確ではない。だが、普請は村人の自普請でするところに石積の重要性と村人の石積に対する思いが象徴される。無骨な石積には村人たちの気骨と労苦が込められている。