21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.24] 広島・鞆(とも)港

瀬戸内の海と人の歴史を見つめた港

 万葉集に、すでにその名が記される鞆の浦。広島県福山市にある鞆港は、瀬戸内の潮待港として古くから繁栄した。江戸中期に築かれた波止場や幕末、明治期に整備されたさまざまな港湾施設が、補修されながら今も残る。瀬戸内の歴史を見守った貴重な遺産たちだ。

広島・鞆(とも)港。

江戸時代の港の文化を伝える石積の波止場や荷揚げ場、常夜灯。

 瀬戸内海は、豊かな海の恵みを与えてくれるだけでなく、古くは都と西国を結ぶ航路として、江戸時代は廻船航路として、重要な海だった。鞆港は、東の大可島、西の明神岬、南の玉津島に囲まれた小さな湾に自然発生的に生まれた、「潮待ち」の港だ。動力を持たない船にとって、潮流は風とともに重要な推進源だった。豊後水道に入った黒潮が、一気に瀬戸内に入るため九州地方からの船は、潮の流れだけで鞆までたどりつけたという。

 鞆港は、江戸時代の物流を支えたさまざまな施設が残された港だ。最も大きな「大可島の波止」は、1791(寛政3)年に造られてから、延長や補修を重ね、1885(明治18)年に先端部分を完成させた。同じく1791年に造られた淀姫神社下の波止とともに約200年、波浪に耐えた石積の波止(防波堤)だ。海の背後に迫る山々からの花崗岩は、きれいに組み合わされることで長い年月を耐えうる強度を得た。この工事には播州高砂から名工である工楽松右衛門が招かれたという記録が残されている。漁具や鍛冶でも知られた鞆の職人技も生かされているはずだ。

 さらに、潮の干満に関係なく貨物の積み下ろしができるようにつくられた、階段状の石積の物揚場「雁木(がんぎ)」は1811(文化8)年のもので、玉津島の波止は1848(弘化4)年築造。灯台の役目を果たした常夜灯「燈龍塔(とうろうどう)」は1859(安政6)年建立と、幕末にかけての施設も多く現存する。また、江戸時代からのものと考えられる石畳造りの「焚場(たでば)」の跡も残る。焚場は、船底についた貝殻や海草をはがし乾燥させるために船底を焼くための船台として使われた。その他にも、廻船問屋や商家の白壁と格子戸を持つ土蔵など、港を中心とした町全体が、わが国の港文化にとっての遺産といえそうなほどの状態で残されている。現代の生活と、古来の海との暮らしが、ごく自然に調和する港。鞆港は、今も変わらずいにしえの海神に見守られるように、静かな日々を過ごしている。

医王寺付近から望む鞆港、深い入り江になっているのがわかる

「遠見番所」とも呼ばれた船番所。現存するのは昭和に入ってから、解体修理されたもの

江戸中期に灯台として使われた常夜灯。闇夜に船を誘導した

寛政〜文化〜文政〜明治と改修しながら延長された大可島の波止場

写真撮影/西山芳一