海拓者たち 日本海洋偉人列伝
重要文化財の四日市港旧港防波堤、通称「潮吹防波堤」にも服部の「たたき」の技術が活かされている。円内は服部長七。
明治の技術が世界遺産を復旧
世界遺産に登録されているカンボジアのアンコール遺跡には、ユネスコ主導のもと各国の救済チームが集まり、復旧工事が行われてきた。日本のチームが手がけたのは、建造から700年近いときを経過した寺院で、土台が老朽化し崩壊の危機にさらされていた。工事に際してさまざまな検討を重ねた結果、強度、耐久性ともに最も優れた技術が採用されることとなる。いまから約130年前、土木請負師の服部長七が発明した「長七たたき」という人造石の技術である。
「たたき」は、石灰に種土を混ぜ、水で固練りしたものを、板や木槌などでたたき固めてつくられる。旧い日本家屋の土間や、床下、井戸側、流し、泉水など、湿気防止や水密性を要するところに広く使われた左官技術である。この品質を極限にまで高めた長七たたきは、新田開発や築港、干拓堤防などの大規模な土木工事に採用された。原料の混合比率など、たたきの技術は地域や職人の流儀によって異なり、勘に頼るところが大きい。近代日本の土木技術に革命をもたらした長七たたきも、長七自身の感覚頼みの技であった。
アンコール遺跡の工事に際し、科学的に解明できない点はあったものの、長七たたきの基本的な原理はそのまま用いられた。悠久の歴史をもつ遺跡の修復に、現代の主流というだけの理由でセメントを使うことに疑問を感じた日本のチームは、土を常温で固める長七たたきが、エネルギー消費を伴わないエコロジカルな技法である点に着目。強度についても、それまで用いていた方法よりも30倍も強いことが分かった。そして、世界遺産に求められる耐久性については、100年以上前の長七たたきが、いまなお機能していることで証明されている。
足かけ3世紀にわたる耐久性
1874(明治7)年、宮内省学問所の土間や赤坂・青山の御所、大久保利通邸、木戸孝允邸などのたたき工事を手がけ、信用を得ていた長七は、その2年後、長七たたきを考案し、警視庁内の深堀や内国勧業博覧会の泉水池の工事などを通じて、さらに評価を高めていく。ちなみに「人造石」の名は、第二回内国勧業博覧会で彼の工事を見ていた農商務省のお雇い外国人から「この人造石は何でできているのか」と問われたことから付いたという。
長七の人造石工法が初めて大規模な土木工事に応用されたのが、1878(明治11)年の愛知県岡崎の夫婦橋工事。 以後、愛知県高浜の服部新田の干拓堤防、名古屋築港、広島県宇品築港、鳥取県賀露港、新潟県佐渡大間港、三重県四日市港など、各地で歴史に残る大工事を成功させた。これらのなかで、名古屋港護岸、高浜の服部新田とその周辺、豊橋の神野新田干拓堤防と牟呂用水樋門、明治用水旧頭首工、庄内用水元杁樋、四日市旧港堤防、岐阜県穂積町の五六閘門などは、いまも長七の構造物が残り、機能しているのである。当時、彼の人造石工法が優れていることは知られていたが、足かけ3世紀もの耐久性をもつことなど、おそらく長七本人にも想像がつかなかったのではないか。
ユニークな発想を持つ職人肌
左官職人の家に生まれ、その道の修業を積み、のちに革命的な技術を生んだ、と聞けば、典型的な職人肌の人物像が浮かぶ。実際、長七はそうした面をもっており、特に技術で国家社会に尽くしたいとの思いが強く、採算を度外視した工事を請け負うことも多かったといわれる。
では一徹な人だったか、というとそれだけではなさそうだ。19歳で、故郷の愛知県新川で左官業を開業した後、酒醸造業や饅頭店、酢醸造業など、34歳でたたき屋になる決心をするまで、さまざまな商売に手を染めている。しかし、こうした一種の迷走が、長七たたき誕生の源となった。東京で饅頭店を営んでいたころ、商品に使う上水の濾過設備を研究試行中に、新しいたたきの有効性を思いつく。翌年にはたたき屋となり、さらに2年後、長七たたきを考案したのである。1899(明治32)年には足温器の製造特許を取得しており、優れたアイディアマンでもあったようだ。1904(明治37)年、一切の工事から手を引くと、愛知県岡崎の岩津天神宮に隠棲し、晩年を過ごした。
ざっと生涯をながめただけでも、なかなか興味深い人物だったことがうかがえる。「大江戸豪商伝」(童門冬二著・徳間文庫)に収録された「ワラジを釣る男」という、長七を主人公とした短編に、史実どおりではないにしても、彼のユニークな発想とキャラクターが描かれている。ご興味のある向きは一読を。
石のすきまを埋めて固めているのが、長七たたきの人造石。100年以上にわたってビクともせず、堤防を支えている。(四日市港旧港 潮吹防波堤の内部通水部)
江戸期には鉱石の積出し港としてにぎわいを見せた佐渡島の大間港。その施設跡は現在使用されてはいないが当時の繁栄を今に伝えている。
大間港の護岸跡や、現役の防波堤にもたたきが採用されている。
服部長七が晩年を過ごした岩津天満宮。(写真提供:岩津天満宮)
人造石が敷き詰められた岩津天満宮の長七庵。(写真提供:岩津天満宮)
服部長七の歩み
1840(天保11) |
愛知県碧海郡北棚尾村(現在の碧南市新川字西山)で左官職人の三男として生まれる |