海拓者たち 日本海洋偉人列伝

海拓者たち 日本海洋偉人列伝

現在の伏木富山港〈写真提供:富山県〉と藤井能三


先進の目を持ち、公に尽くす

 日本海沿岸のほぼ中央部、能登半島にかかえられた富山湾の奥部に位置する伏木富山港。背後地に高岡市、富山市、新湊市といった北陸の中心的都市圏を擁し、さらに内陸へと進めば長野県、岐阜県、また名古屋を中心とした中部大都市圏などが控える。海外へ目を向ければ中国、韓国、ロシア各国との国際交流に適した地理的条件に恵まれており、外貿コンテナの取扱量の伸びが著しい。日本海側の玄関口として、わが国を代表する港湾である。

 伏木富山港の繁栄に地理的条件が好影響を及ぼしていることはもちろんだが、その歴史を辿るととりわけ一人の人物の功績が光る。明治期を通じて当地の教育・政治経済・海陸にわたる交通など幅広い分野で活躍した伏木港(現・伏木富山港伏木地区)開港の祖、藤井能三である。

 能三は越中(現・高岡市伏木)の廻船問屋にして豪商、能登屋三右衛門の長男として生まれた。彼が育ち、青春時代を過ごしたのは、世の中が開国から維新への激動期、そして明治の変革期に移っていった時代である。1873(明治6)年、村の近代化のためには教育が第一と考え、県下で最初の公立小学校、伏木小学校を設立。校舎は能三の持家、教師の給料、教科書も能三の負担である。当時の寺小屋や私塾と異なり、地球儀を授業に用い、英語も教えた。その3年後には女子の教育の必要性を提唱し、藤井女児小学校を開いている。このような先進的な考え方と公のために私財をなげうつ気概を持って能三は伏木港開港という偉業に向かったのである。

地元の支持を固め、汽船航路に

 能三は1869(慶応元)年、加賀藩の御用人を任ぜられ、同年神戸出張を命じられる。そこで彼が目にしたのは、外国からの蒸気船が寄港し大量の物資が積み降ろしされてにぎわう神戸港の様子であった。このときに彼が受けた衝撃から、明治に入って自らの故郷の港の整備に邁進することとなる。当時の伏木港は、水深が浅く座礁事故が絶えない危険な港だったが、米や北海道移民の移送など重要な役割を担っていた。港湾整備の必要性とともに激動の時代に取り残される焦燥感も手伝った。

 能三はまず地元の人々に伏木港整備の必要性を訴え、協力を呼びかけるが、なかなか理解が得られない。しかし、先述した学校設立において私財を地域貢献のために投じる彼の姿が次第に人々の心を動かし、賛同者が現れ始める。

 地元の支持を固めた彼は、当時日本最大の汽船会杜だった三菱汽船に、伏木港に汽船を寄港させてもらえるよう交渉に出る。この申し出に対し、伏木港の商機に疑問を感じた三菱汽船社長・岩崎弥太郎は、積み荷を集めること、積み荷が船の半分に満たない場合の補償運賃、そして灯台の整備という三つの交換条件で応じた。いずれも困難な課題だったが、能三は伏木に戻り荷物をかき集め、灯台の建設に私財を投じる。北陸名産の米をはじめ積み荷は用意できたものの、灯台は期限に間に合わない。しかし、岩崎は能三の奔走ぶりと地元の厚い支持を高く評価し1875(明治8)年、三菱の汽船が伏木と東京・大阪・北海道・北九州を結ぶこととなり、2年後には日本海側で初めての西洋式灯台が完成した。

偉業を支えた気高い志

 伏木港に航路が開かれてから6年を経た1881(明治14)年、能三は三菱に対抗するために宮林家、馬場家ら地元の船問屋とともに「北陸通船会社」を共同設立した。恩を仇で返すような形だが、これは正当な利潤を得ようとする意図に加え、農民が支払う産米輸送費を下げることも大きな目的だった。

 彼は会社設立以前から、伏木港に大型汽船が寄港できるよう政府に築港工事の申請を行うも難航していた。そんなさなか、三菱を相手取り日本の海運史にも記録されるほどの激しい競争の末、1885(明治18)年に敗退し、経済不況のなかで倒産の憂き目に遭う。しかし、能三は協力者を従え築港に向けての活動を続けた。1891(明治24)年には「伏木築港論」発刊。本書のなかで伏木港とウラジオストクと航路を結び、シベリア鉄道を経由してヨーロッパに至る輸送経路の効率性を説き、ヨーロッパや対岸諸国との貿易に資する近代港湾としての整備を主張した。

 ひとえに伏木の発展を願う能三の執念は、ついに1899(明治32)年、伏木港が開港場(外国と自由な貿易が可能な港)指定を受け結実する。彼が政府に整備申請を出してから実に二十余年の歳月が過ぎていた。

 いまなお伏木の人々から能三に寄せられる畏敬の念。それは開港はもちろん伏木測候所、中越鉄道開通、庄川と小矢部川の切り離し工事などの周辺事業を主導した功績、そして持てる富を公に費やし、逆境のときにも信念を貫いた彼の気高い志にも向けられているのだ。

能三が工事費用を全額負担した、日本海側初の西洋式灯台〈写真提供:高岡市立博物館〉

1999年に開港百周年を記念して再現された西洋式灯台

大正時代の伏木港〈写真提供:高岡市立博物館〉

現在、伏木富山港には大陸からの多くの外航船が入港。能三が夢見た光景だ。


藤井能三の歩み

1846(弘化3)
1869(明治2)
1873(明治6)
1875(明治8)
1877(明治10)
1881(明治14)
1883(明治16)
1886(明治19)
1891(明治24)
1893(明治26)
1899(明治32)
1913(大正2)

伏木村(現高岡市)で廻船問屋能登屋の長男として生まれる
加賀藩から神戸出張を命ぜられる
私費で県下初の小学校、伏木小学校を設立
三菱汽船の代理店となる
伏木港共有灯明台建設
北陸通船会社設立社長就任
私立伏木測候所設立
北陸通船会社など関与企業倒産
「伏木築港論」発刊
中越鉄道会社設立発起人
伏木港が開港場指定を受ける
逝去 享年67歳