海拓者たち 日本海洋偉人列伝
現在の広島港と千田貞暁(写真提供:広島市公文書館)
かつて罪とされた偉業
広島港の前身にあたる宇品港は1889(明治22)年に完成。この一介の地方港が一躍脚光を浴びることになったきっかけは、完成から5年を経て始まった日清戦争である。山陽鉄道の西端であった広島駅から宇品港まで軍用鉄道が敷設され、同港は大陸への軍用輸送基地となり、多くの兵士がこの港から出兵した。その後も陸軍の輸送補給を担当する陸軍運輸部や大本営が置かれた。
宇品港が国政上不可欠な軍事拠点となったことにより、元広島県令(知事)の千田貞暁は1898(明治31)年に男爵を授爵した。築港の陣頭指揮をとった功績が賞されたのである。その後、彼の名声はさらに高まっていく。没年の1908(明治41)年に建立された宇品築港記念碑をはじめ、千田廟公園と彼の銅像、千田神社、千田町、千田祭など、市民が彼に寄せる敬意はいまなお広島市宇品界隈に散見できるのだ。
しかし「時代とは皮肉なもの」との感が残る。かつて彼は宇品築港の仕事をもって罰せられていたのだから。
人災と天災に阻まれて
1880(明治13)年、東京から広島県令に着任した千田は、宇品島沖に停泊した汽船から上陸のため足をとられながら小舟に乗り換えた。港湾整備の不備を痛感した千田は内務省に実地調査を依頼する。自らも県内の情勢を調べた結果、太田川の流砂が海運に支障をきたし、大型船が接岸できる港湾施設もないといった港の現状を知る。このとき千田は築港にすべてを賭ける決意を固めた。
宇品の築港は1884(明治17)年に着工。翌年の12月には第一段階である堤防が完成した。しかし直後に海水がにじみはじめ、たちまち決壊してしまう。堤防は当時の最先端技術であった人造石工法によるもので、騒ぎ立てる工事関係者のなかひときわ大声を上げて悲嘆に暮れたのが、この工法の開発者にして築港の工事請負人、服部長七である。千田は余裕の表情で長七を励ました。もとより工事は、周辺の漁師、地主、農民に加え、財政を危惧する県の職員の猛反対をおさえ、千田が信念をもって進めたものである。千田とて落胆は大きいはずだが動じる様子はない。長七はそんな千田に勇気づけられた。のちに、この事故は反対派の工作だったことがわかった。
ところが翌年の9月、こんどは台風の直撃でまたしても堤防が決壊。工事は一夜にして振り出しに戻った。工事費用は、千田が投じた私財、県職員の寄付金、銀行からの借入金、政府からの補助金などでまかなわれていたが、かつかつだったところへ二度目の決壊である。反対派が快哉を叫ぶなか、千田は「これしきではケツは割らん」とあくまで強気を崩さない。千田はこれまで持ち前の威厳をもって、とまどう部下たちを統率してきた。眼光鋭い迫力ある髭面に加えて、他を圧する意志の強さが求心力となっていたのである。
築港に賭けた決意の源とは
工事は当初計画の倍にあたる62ヵ月を経て完成したが、工費に至っては予算の4倍近い30万142円73銭8厘にのぼった。さらに二度に渡る国庫補助金の利用が千田を窮地に追い込んだ。1事業につき利用は1回とされていたが、千田は工事が国益に直結することを強調して再度の受給にこぎつけた。しかし事が済むと、支給した政府側の責が問われることはなく千田一人が「築港計画粗漏」の懲戒に処せられ、竣工と同時に新潟県知事への転任を余儀無くされた。千田は粛々とこの令に従う。港が完成を見たとあらば未練などあろうはずもない。
県令就任からさかのぼること十余年、千田は薩摩藩士として戊辰戦争に従軍し、同郷の西郷隆盛らとともに維新のために戦った。その後、政府と対立した西郷たちは西南の役を起こし命を落とす。この戦いに参加することなく生き延びた千田は、国家に寄与する大事業を自らの使命に課していたのである。
障害を物ともしない粘り腰、周囲を圧する求心力を支えていたのは、捨て身の烈士の魂だった。その魂は、没後100年近くを経たいまも千田の名を冠した町名や施設、祭典として生きつづけている。
築港当時の宇品港(写真提供:土木学会附属土木図書館)
大正期の桟橋(写真提供:土木学会附属土木図書館)
現在の桟橋
千田貞暁の歩み
1836(天保7) |
薩摩藩士千田傳治の長男として生まれる |