海拓者たち 日本海洋偉人列伝
銭屋五兵衛の北前船の商い地図と肖像画(石川県銭屋五兵衛記念館)
北前船の台頭と、その出世頭
18世紀から19世紀は、日本の海運業が大きな発展を遂げた時代であった。その原動力となったのが北前船である。
北前船の主なルートは西廻り航路と呼ばれ、蝦夷地(北海道)や東北から日本海へ出航し、山陰を経由して瀬戸内海に入り、当時の日本経済の中心であった上方(大阪・京都)へ物資を運んだ。北前船登場以前は海路と陸路を織り交ぜたルートが主だったため、荷物の損傷が激しく運賃もかさんだ。
こうした問題を解決した北前船は長きに渡って活躍し、江戸へ向かう東廻りの航路も開拓された。全国各地へ食料や日用品、衣服、家財道具など多様な物資を供給し、日本経済を潤したのである。
北前船による海運業の中心を成したのは、加賀藩(石川県)の船主たちであった。加賀の北前船主の多くは、近江商人の雇われ船頭から出発し、航海を任され、商品売買を経験するにつれて次第に商才を発揮するようになったのである。
加賀が生んだ多くの北前船主のなかで、もっとも隆盛を誇ったのが、のちに「海の豪商」「海の百万石」の異名を取る銭五こと銭屋五兵衛である。
銭屋五兵衛は宮腰(金沢市金石)に代々続く商家の長男に生まれた。銭屋の伝統に則り17歳で家督を継ぐが、海運を始めたのは39歳、豪商として名を上げたのは50歳を過ぎてからである。時はまさに北前船全盛。時代の潮流に乗った面もあるが、それを差し引いても、銭五の経営手腕が非凡なものであったことは確かだ。
斬新な経営手腕で藩を救う
質流れの古船を修理して海運業に乗り出した銭五は、材木商として東北地方と取引を行った。銭五は買い付けに派遣した船頭に対し、質の良い材木なら買い付けて運ぶよう命じた。この「買い積み」は、地域による価格差で儲けを出す仕組みで、材木の輸送は運賃だけを稼ぐだけの「賃積み」が一般的であったが、銭五は利幅の見込める買い積みを選択した。材木の供給元にとっても大歓迎だった。
銭五の画期的な経営手法はこれだけにはとどまらない。海難事故による荷物損害の負担元について、買い積みと賃積みの輸送形態別にルールを確立。現在の海難保険の先駆けである。また、荷物が無事到着したときには、その場で手付けを支払った。さらに、北前船という商売の危険性を分散するために、支店を設置するなど組織的な取り組みを行った。現代の言葉に置き換えれば、自分たちだけでなく取引先の利益も確保する「Win Win」の関係、そして「リスクマネジメント」である。
このような斬新な組織経営が、財政逼迫に喘いでいた藩の目にとまるところとなり、銭五は加賀藩の重臣から海運を藩営事業として展開することを持ちかけられる。藩の庇護のもとで商売ができることは、銭五にとって願ってもない申し出である。こうして銭五の持ち船だった三隻の北前船が、藩の御手船(おてせん)に宛てられた。なかでも、積載量千五百石の「常豊丸」は、当時、2千6百両の費用を投じて建造した大型船で、銭五をして「商船においては日本一」といわしめた自慢の船である。
これを機に、銭五は日本屈指の海運業者として大きく飛躍していくのである。このとき銭五は70歳であった。
目覚ましい成功の果てに
商人として目覚ましい成功の道を歩んだ銭五だが、一方で周囲からあらぬ疑いが向けられることになった。天保の大飢饉の際には、藩命によって米を運んでいたにもかかわらず、抜け荷で儲けているとの噂が立った。そして、このような疑いの目は、日本屈指の豪商に悲運の最期をもたらすこととなる。
藩の方針に基づいて1849(嘉永2)年、銭五は河北潟の埋立による新田開発に着手する。その工事中、河北潟の魚が大量に死んだ。すると、地元の漁師たちは銭五が毒を流したと騒ぎ立てたのである。
明確な証拠はなく疑惑を否定したにもかかわらず銭五は投獄された。すでに80歳に達しており、牢のなかで無念の最期を迎えたのである。
「大器晩成」の言葉がふさわしい成功を遂げながら、最後には悲運に見舞われた銭五。しかし経済基盤が農業にあった江戸の世に商業という新しい潮流が時代を担う可能性を示した功績の大きさは、いまなお輝きつづけている。
明治期の金石湊
銭五が誇った御手船「常豊丸」の復元模型
石川県銭屋五兵衛記念館に建てられた銅像
隠居後の経営記録として書き留められた「年々留(ねんねんどめ)」は息子に対する商売の指南の意味も込められていた
銭屋五兵衛の歩み
1773(安永2) |
宮腰下通町銭屋の長男に生まれる。幼名茂助 |
[参考資料]「銭屋五兵衛と北前船の時代」北國新聞社 [写真提供]石川県銭屋五兵衛記念館