海拓者たち 日本海洋偉人列伝
現在の苫小牧港西港区が1963年の築港地区にあたる[写真提供:苫小牧港管理組合]と鈴木雅次[写真提供:(社)土木学会]
日本初の掘込式港湾の誕生
大正から昭和にかけて港湾土木行政の重要ポストを歴任し、全国の重要港湾や地方港湾、河川、インフラなどの整備拡充や臨海工業地帯の開発に尽力。また、土木学の発展にも多大な功績を残した鈴木雅次。氏が逝去した翌年の1988(昭和62)年、「鈴木雅次さんを偲んで」という追想録が刊行された。B5版にして348ページに及ぶこの書籍には、関係者の寄稿や氏の手によるエッセイ風の小文などが収録されており、そのなかに1963(昭和38)年から20年にわたって苫小牧市長を務めた大泉源郎氏の寄せた文がある。一部引用する。
[そこで苫小牧市長は日本港湾協会に、港湾計画の策定を委託した、当時協会の副会長である鈴木雅次氏を委員長とする苫小牧工業港修築計画調査委員会が設置された。
その中で鈴木委員長は「砂浜に港が出来ないのは漂砂で港口が埋るからで、従って防波堤を相当深い処まで出す大規模な港でなければ成功しない、それには莫大な費用がかかる、その費用を回収するには内港を陸に掘り込み大臨海工業地帯を造成すべきである。
日本は資源の無い国であり、外国から原料を輸入して製品を輸出する、いわゆる加工貿易で生きて行かねばならない。
苫小牧港は北海道開発の為にも、国策として重大な使命をもって居る」
この鈴木委員長の画期的な発想に依り苫小牧港は造られた]。
この文で触れられているのは、1951(昭和26)年に起工された苫小牧工業港の築港工事である。
小さな漁村にすぎなかった苫小牧が、工業都市として発展したのは、1910(明治43)年に王子製紙苫小牧工場が操業を開始したことに端を発する。街の急速な発展に伴い、港の必要性が高まった。にもかかわらず、40年ものあいだ足踏みがつづいたのは、一帯が砂浜であることが最大の障壁となっていたのだ。北海道において、昭和の初期までに太平洋沿岸につくられた港は例外なく漂砂の影響を受けていた。新しい防波堤が半年、1年で埋没してしまった苦い経験を持っていたのだ。加えて採算性なども問題視され、構想は頓挫するばかりだった。
そのような状況のなかでも自治体や企業、市民の熱望が絶えることはなく、ついに計画の立案に至ったわけだが、地質の問題が解決されたわけではない。関係者たちのあいだでも小規模な港にとどまらざるを得ないという消極的な考えがわき起こりつつあった。
そんななかで冒頭に引いた鈴木雅次の主張は、大泉氏の言葉通り「画期的な発想」であった。砂で埋まる可能性があるからこそ大規模でなくてはならない、大規模な港に大臨海工業地帯を伴わせなければ、費用を取り戻せないこと、そして国家の利益に言及し苫小牧港がその担い手となること——。この大胆な主張が、多くの関係者に勇気を与えることとなったのである。
1963(昭和38)年、日本で初めての掘込式港湾として苫小牧港は供用が開始された。海側から陸地を掘り込んで静隠水域を確保し、港湾として活用する掘込港湾は、以後鹿島港、新潟東港、福井港など同様の方式での築港へと受け継がれた。
マルチな才能、飽くなき探究心
鈴木雅次は多才な人であった。少年時代は画家を志したこともある一方、算術に長け、長野県随一の名門校であった旧制松本中学校にトップの成績で入学。九州帝国大学の土木工学科に学び、卒業後は一貫して土木の第一人者として活躍。このように振り返ると、理系一筋の印象があるが、専門分野から外れた一般向けの読み物なども多数発表しており、文才にも秀でていたことがわかる。
また、人一倍研究熱心でありつづけた。自身の経験と研究成果をまとめた「港湾工学」(のちに「港工学」と改題)を記し、これは港湾土木テキストのマスターピースとされている。さらには、1973(昭和48)年のノーベル経済学賞の受賞者レオンチェフが確立した産業連関分析を日本に適用できるよう修正して導入し、土木事業の投資効果を計量化した。
マルチな才能が飽くなき探求よって先鋭化。結果、土木界初の文化勲章の受賞につながったのである。
捨石による防波堤整備[写真提供:北海道開発局室蘭開発建設部苫小牧港湾事務所]
苫小牧港築港風景[写真提供:北海道開発局室蘭開発建設部苫小牧港湾事務所]
1963年4月25日、苫小牧港は開港し第1船を迎えた[写真提供:北海道開発局室蘭開発建設部苫小牧港湾事務所]
苫小牧港港南第三公園に建つ計画代表者の鈴木雅次と築設者代表の猪瀬寧雄の顕彰碑[写真提供:北海道開発局室蘭開発建設部苫小牧港湾事務所]
名著の誉れ高い「港工学」
鈴木雅次の歩み
1889(明治22) |
長野県松本市に生まれる |