海拓者たち 日本海洋偉人列伝
現存する野蒜築港跡の橋脚
奥州経済を担う大事業
福井県の三国港と熊本県の三角港、そして宮城県東松島市の野蒜港は、「明治三大築港」と呼ばれている。なかでも野蒜築港は、岩手、宮城、福島、山形を結ぶ巨大な経済圏を作り上げようという大規模な構想の拠点として、内務省直轄のもとに推進された日本初の近代的洋式港湾建設事業であった。
プロジェクトの発案推進者は、時の内務卿であり新政府の重鎮であった大久保利通である。大久保は内務省土木局長の石井省一郎を介して、オランダ人技師ファン・ドールンに、築港調査と設計を命じる。1877(明治10)年、ドールンの報告が内務省に提出された。当時、地元住民の希望は北上川の河口にあたる石巻であったというが、ドールンが選んだのは、鳴瀬川河口の野蒜であり、最終的にこの地での築港が決定する。それでは現場の指揮は誰が執るのか?内務省が選んだのは、当時39歳で、元幕臣の土木テクノクラート、黒澤敬徳であった。
幕末という激動の時代を生きる
黒澤敬徳は1838(天保9)年、中級旗本・清水家の嫡子として江戸に生まれた。清水家は代々、幕府の都料匠(とりょうしょう・大工頭)であり、敬徳も祖父や父の後を次いで、大工頭となった。江戸幕府における大工頭は、幕府直轄の建築工事を取り仕切る作事奉行の配下にある役職である。しかし幕府は鳥羽伏見の戦いの敗北を受けて消滅、時代は明治となり、敬徳はその職を失い野に下る。
一方で、明治の新政府は、幕府打倒を成し遂げた後は、西欧列強に肩を並べるべく、富国強兵に取り組んでいた。しかし幕末の動乱で、優秀な官僚、なかでも高度な専門知識と技術をもつ優秀な行政官の人材不足の解消は、切迫した課題であり、このため多くの幕臣が新政府に取り立てられた。こうした時代の波に乗り、敬徳は政府に復職、ドールンとともに築港調査に参画した後、1878(明治11)年、野蒜築港内務省土木局出張所二代目所長として、野蒜に赴任することとなる。
嵐に消えた旧幕臣の夢
野蒜築港工事は、石巻湾に流れ込む鳴瀬川河口に内港を建設、ここを小船舶の係留地とし、野蒜−宮戸島間の入江を大型船舶の停泊地となる外港とするものであった。これにともない、北上川から内港、さらに内港から松島湾を結ぶ運河を建設し、最終的に阿武隈川につながる流通路を確立しようという壮大なものである。
野蒜に赴任した敬徳は、まず北上運河の建設に着手。翌年には内港建設のため、オランダ式工法(粗朶沈床工)による突堤工事を開始した。しかしこの工事は、激しい波と急深な海底地形により難航、当初の計画を縮小する形で完成したのは1882(明治15)年であった。なお全長12.8kmの北上運河は前年に完成しており、突堤竣工の2ヶ月前には、蒸気船・米沢丸が、石巻−野蒜−塩釜間の航路に就航している。
敬徳は、突堤工事の竣工の直後、病に倒れ帰京。しかし病状は急激に悪化し、野蒜築港の第一期工事の落成を見ることなく、突堤竣工からわずか4ヵ月後の1883(明治16)年2月8日、45年間という、当時としてもいささか短い生涯を閉じた。さらに悲劇的なことは、敬徳の死の翌年、第一期工事の落成間もない野蒜港を台風が直撃、彼が身命を賭した突堤の一部が崩壊し、内港が閉鎖。これが原因で、政府は第二期工事の外港に着手することなく野蒜築港計画を放棄するのである。
歴史的な結果だけを見れば、敬徳が指揮して作り上げた野蒜港、そして野蒜築港を中心とした巨大プロジェクトは、明治という時代が残した、未完の大事業であった。しかし、幕末から明治を生き抜き、己の才覚を頼りに港湾事業に打ち込んだ黒澤敬徳という男の夢、そして日本初の近代港湾建設という挑戦の記録は、深く日本の港湾土木史に刻まれることとなった。今も現地に残る、敬徳の功績をたたえる石碑には、次のように記されている。
「石を重ねて堤とするは、波濤大なる場所」
崩れては築き、功績を積み上げた。それを誰が否定するだろう。
野蒜築港跡に建てられた内務一等属黒澤敬徳碑[写真提供:kasen.net]
工事に使用されたローラー。「土木」の文字が刻まれている[写真提供:kasen.net]
■野蒜築港に関わる主な事業
- 東突堤(191m)、西突堤(236m)の建設
- 北上運河の開削(延長11.8Km)及び閘門の設置
- 東名運河の開削(延長3.3Km)
- 新鳴瀬川の開削及び潜堤設置による鳴瀬川の切替
- 内港泊地の浚渫(3ha、水深4.2m)
- 鳴瀬川のデルタ埋立による新市街地の造成(34.6ha)
黒澤敬徳の歩み
1838(天保9)
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幕府の中級旗本・清水家の嫡子として江戸に生まれる。 |