海拓者たち 日本海洋偉人列伝
1912年(明治45)6月19日、東京芝浦埠頭に帰港した開南丸の快挙を記念し、埠頭公園に建てられた白瀬南極探検隊記念碑。円内は野村直吉
怒涛甲板ヲ洗ウ、船体動揺甚シ
大航海時代の昔から現在に至るまで、南極海周辺は、世界屈指の暴風圏として恐れられている。船乗りたちは南緯を基準にその自然の猛威を評し、今も「吼える40度」「狂う50度」「叫ぶ60度」と呼び習わしている。
現在から時をさかのぼることおよそ100年前の1911(明治44)年12月2日、白瀬矗(のぶ)中尉以下、27名からなる探検隊員を乗せた木造機帆船・開南丸は、船位東経164度、南緯48度、波濤渦巻く荒海をひたすら南極大陸にむけて前進していた。「吼える40度」の荒海のなか、わずか204tという木の葉のごとき小船を指揮するのは、船長・野村直吉である。
野村の手によるその日の航海日誌には、次のように記されている。
「怒涛甲板ヲ洗ウ 船体動揺甚シ 傾斜左右最大30度アルヲ認ム (中略) 猛烈ノスコール襲来 (中略) 怒涛ノ高サ三十五六尺 巾約十間位ト認定ス 動揺32度」
船がさらに南下するにつれ、波涛はさらに荒れ狂う。船体の動揺は最大38度に達し、南緯60度を越えた12月12日になると、「氷山水海ニ付航走上大困難」とあり、暴風・波涛に加え、さらに氷山が船の行く手を阻みはじめた。それでも野村は、非力な機帆船を操船しつつ、30度を超える傾斜を繰りかえす船上から、僅かに雲間から現れる太陽を頼りに天測を繰り返し、舵を取った。9ヵ月前の上陸直前の撤退から捲土重来を期して、めざすは未知の大陸・南極である。
百発の空砲は一発の実弾にしかず
開南丸が、華やかな歓送会に送られて品川沖を旅立ったのは、1910(明治43)年11月29日。しかし、この極地行は、船出から大きな困難を抱えた旅でもあった。当初予定していた探検用の船の手配に失敗。急遽、使用されることになった開南丸はわずか204tの木造船。しかも機帆船であるものの、艤装された機関は18馬力に過ぎない。このような船で日本と南極を往復することは、あまりに無謀な計画であると批判された。さらには、資金調達や船の手配で出港は遅れに遅れ、南極海に達する頃には、酷寒のなかでの接岸・上陸を余儀なくされることが明らかであった。
それでも隊長白瀬は、これ以上の停滞はできないと出発を決意、船長である野村は、その期待に応えるべく、錨を上げた。2人の男の壮烈な覚悟は、探検隊の支援者であった大隈重信が激励で述べた、「百発の空砲は一発の実弾にしかず」、つまり条件が過酷でも、断固実行すべしというものであった。
2度にわたり南極海の暴風圏を突破
開南丸は品川を発ってから2ヵ月が過ぎた1911(明治44)年2月8日に、南緯41度にあるニュージーランドのウェリントンに到着。ここで石炭や食料を調達し、いよいよ「吼える40度」の先、南極大陸に向かう。しかし暴風圏を越え、大陸の沿岸に差し掛かった頃にはすでに南極海は厚さ30cm以上の海氷に覆われており、一行は上陸を断念、5月1日、シドニーに回航する。
それから半年が過ぎた11月19日、開南丸は再び錨を上げ、南極海に向けて出航。南緯40〜60度の暴風圏を突破し、ついに翌1912(明治45)年1月3日午前7時、船首方向に南極大陸の山岳地帯を確認。さらに海氷渦巻く沿岸地帯で上陸地点を探しながら、ついに16日午後10時、一行は西経164度30分、南緯78度31分、南極大陸の一端に上陸を果たした。
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日本人初の南極探検家として白瀬の名はよく知られているが、彼らを南極に送り、1人も欠けさせることなく日本に戻ってきた野村の名前は、近年まで広く知られることはなかった。しかし、非力な小船で南極海を2度往復した野村の卓越した操船術について、英国地理学協会誌にはこう記されている。
「小船の開南丸で日本と南極間を往復、生還した航海技術は、野村直吉の名が大航海者らの中に記憶されるべきことを証するものである」。
南緯80度05分に到達。その一帯の大雪原を「大和雪原」と命名した
白瀬南極探検隊の一行。中央正面に無帽で立つ人物が野村
野村の手による詳細な航海日誌
航海日誌にはカラーでスケッチが描かれている
野村直吉の歩み
1867(慶応3) |
現在の石川県羽咋市に生まれる。本名は西東直吉。 |
参考文献:「雪原に挑む白瀬中尉」渡部誠一郎(秋田魁新報社)/「南極を目指した日本人」大賀清史(社団法人全日本船舶職員協会報第101号)/「続・南極を目指した日本人」大賀清史(社団法人全日本船舶職員協会報第104号)
取材協力:白瀬南極探検隊記念館