海拓者たち 日本海洋偉人列伝
現在の東京湾周辺の伊能大図[忠敬と伊能図(現代書館)より]と伊能忠敬の肖像[写真提供:伊能忠敬記念館]
子午線1度の計測を夢みて
「地球の大きさは、はたしてどれくらいなのか? そのためには、子午線1度の距離を計測せねばならない」
現代から時をさかのぼること200年前、そんな知的好奇心のままに、足掛け15年以上、約4万kmを歩いた男がいた。男の名は、伊能忠敬。1795(寛政7)年、隠居となった51歳で江戸に出て幕府天文方暦局の高橋至時(よしとき)に天文学を学び、その熱心さからいつしか「推歩(すいほ)先生」(推歩は天文計算の意)と呼ばれるようになった。当時、幕府の暦局の人々はもとより、世界の学者の間でも「地球の直径はどれほどになるのか?」というのは、大きな課題であった。地球の正確な直径を知るには、子午線1度の距離、つまり緯度を正確に計測しなければならない。すでにオランダ経由の書物から、地球が丸いこと、しかしその直径は未だ明らかになっていないことを知った忠敬の好奇心は、子午線1度の探求に向けられる。
そんな折、忠敬は師であり幕府の官吏でもある至時から、奥州街道測量の計画を持ちかけられた。
「推歩先生、ご公儀は異国の脅威もあり、奥州や蝦夷の地図を欲しがっておる。そこで測量を行い、地図を作りながら奥州街道、いや、蝦夷までの計測をすれば、子午線1度の正確な距離が、割り出せるのではないだろうか」
こう打ち明けられた忠敬は、がぜん意欲を燃やした。ところが、武士でなく農民である忠敬の測量の旅を、幕府は簡単には認めず、自費で出発することを条件にようやく許可が下りる。
1800(寛政12)年、江戸を出発した忠敬は56歳。当時としては、悠々自適の楽隠居の年齢だが、測量にかける意欲は、青年のものであった。
失意と再びの旅立ち
幕府は海路による測量を指示したが、それでは子午線1度の長さが測定できない。至時と忠敬は陸路を主張し、承認された。過酷な道中となることは必至、携行する機器も限られることも承知のうえでの申し出である。
忠敬の測量日記「蝦夷于役志」によれば、奥州街道北上の際には1日に9里から10里(約39km)、ときには13里(約51km)以上の強行軍を続けていたが、難路の多い蝦夷地に入ると1日4〜5里が精一杯であった。忠敬が測量を終え、江戸に戻ったのは、出発から3年が過ぎていた。師・至時に「子午線1度は二十八里二分」と報告した忠敬は、病床の至時から、すでに西洋では子午線1度の距離は明らかにされたと告げられ、衝撃を受ける。
しかし、子午線1度は二十八里二分という実測値から、地球の直径を計算すると、その数字は現在のメートル法で約4万km。しかもこの忠敬らの実測値は、当時のオランダの天文学書と照らし合わせても一致し、その成果に忠敬と至時は多いに満足した。忠敬の実測値「子午線1度は28里2分」は、現在のメートル法換算と比較しても、誤差はわずか0.2%と、驚異的な正確さである。
しかし、師弟の喜びもつかの間、高橋至時は、この翌年、わずか39歳で生涯を終えてしまう。その後、幕府は、忠敬の計測した東日本地図に感嘆し、「さらに四国や九州を含めた、西日本地図を作成せよ」と命令。いまや忠敬の測量は国家事業となった。この時、伊能忠敬61歳。再び、測量の旅が始まることになる。
死を秘して完成した地図
西日本の地図を作る、伊能忠敬の測量の旅は、その後、足掛け10年に及んだ。1815(文化12)年2月19日、江戸は八丁堀で最後の測量を終えた忠敬は齢71歳。第1回の奥州・蝦夷への旅を含めて15年以上、その間、歩いた距離は、実に4万kmとなっていた。
その後、測量結果を地図に書き起こす作業の最中、1818(文政元)年、忠敬は肺を病み、地図の完成を見ることなく74年の生涯を終えた。しかし、弟子たちはあくまでも、「地図の製作者は伊能忠敬」とするために、その死を秘して地図の完成を急ぎ、ついに1821(文政4)年、日本初の実測地図である「大日本沿岸輿地全図」が完成。
子午線1度の夢から始まった、忠敬の4万kmの旅はついに完結した。
伊能忠敬が使用した測量道具。距離を計測するくさり(写真上)は、1本が1尺で、60本つないで10間とした。写真下は観星鏡(左)と象限儀(右)。それぞれ望遠鏡と、恒星の高度計
伊能忠敬が作成した地図(黄色)に、現在の地図(緑)を重ねた比較図。ほぼ正確であったことがわかる[資料提供:伊能忠敬記念館]
伊能忠敬の歩み
1745(延享2) |
上総国山辺郡小関村(現在の千葉県九十九里町)の名主の家に生まれる。 |