海拓者たち 日本海洋偉人列伝

海拓者たち 日本海洋偉人列伝

兵庫県高砂市に残る工楽松右衛門の屋敷


優秀な船頭にして発明家

 寛政の三奇人と呼ばれた警世論家・林子平が列強ロシアの南下政策を警告した『海国兵談』の発禁から後、ようやく時の江戸幕府は蝦夷地以北の領土保全の重要性を理解し、日本人が開拓し、住みつづけていた択捉島(恵登呂府)領有化を主張した。しかし、江戸からはるか遠く離れた蝦夷地。そのさらに先にある択捉島には、これまでごく一部の先駆的な探検者が訪れたのみである。ロシアに対して自国の領有権を主張する以上、そこには幕府による恒常的な支配が必要であり、そのためには、まず海路・海運を開かねばならない。
 そこで白羽の矢を立てられたのが、海運業者にして稀代の発明家、播磨の国・高砂の住人で、後に幕府より「工楽」の姓を授かる、工楽松右衛門その人であった。松右衛門は、青年期から船に乗り込み、やがて自ら船持ちの船頭となる。操船の腕前はもちろん実業家としての才覚も持ち合わせた松右衛門は、海運業者としても大成していた。

現代まで続く松右衛門帆

 松右衛門は生来の創意工夫の性質から、42歳の時に、従来の和船に用いられてきた藁を編んだむしろや2〜3枚の綿布を重ねて紡いだものに代わり、木綿の細糸をより合わせた太糸を使い、厚手の一枚布を織り上げる方法を考案。この新しい布は、耐久性に優れ軽く扱いやすいことから瞬く間に全国に普及し、「松右衛門帆」と呼ばれるようになった。現在の帆布にも受け継がれる、すだれ織りの誕生である。また松右衛門は、新巻鮭を保存食として考案した人としても知られる。こうした発明家としての取り組み、また回船問屋として自身の北前船でたびたび蝦夷航路を往復してきた実績、さらに土木事業にも優れた能力を発揮してきたことが幕府の目にとまった。
 1790(寛政2)年、幕府は松右衛門に択捉島に波止場を建設することを命令する。このとき松右衛門は47歳。当時としては隠居していて当然の、現代の感覚でいえば高齢者であった。

択捉島での埠頭建設を完遂

 この頃、択捉島は、わずか800人ほどのアイヌ民族が暮らす辺境の島であった。ここで松右衛門が、どのように奮闘して埠頭を建設したのか?その記録は、現在ではあまり残っていない。松右衛門の後を継いで、択捉島開拓を進めた海商・高田屋嘉平の華やかな活躍がかなり詳細に残されているのにくらべ、先駆者である松右衛門の業績はつまびらかになっていないのである。
 松右衛門は、幕府からの命令をうけて同年5月、自前の船に築港用の器材と資材、そして日章旗を積み込み択捉島へ出発。下命の翌年である1791(寛政3)年の夏に、埠頭を完成させた。北海ならではの厳しい自然環境をはじめ、未知の島の地形、資材や資金など、その工事の困難さは想像に難くない。
 埠頭の完成後も、松右衛門はたびたび交易をかねて択捉島を訪れ、いつしか湾内に浮かぶ小さな島は、地元の人々や船乗りたちから「松右衛門島」と呼ばれるようになったという。
 択捉島の波止場完成から11年後の1802(享和2)年、幕府は松右衛門の功績を称え、「工楽」の姓を与える。これは、「工夫を楽しむ」という意味であるという。その後も函館港でのドック建設や石鈴船・石救捲き上げ装置を発明して防波堤工事に利用するなど、松右衛門の創意工夫と港湾事業への意欲に衰えを見せぬまま、1812(文化9)年に70歳の天寿をまっとうした。
 択捉島での困難を極めた埠頭建設も、高田嘉平の影に隠れ後世の歴史ではいささか影が薄いことも、「工楽」先生には気にかけることではなかったのかもしれない。自ら工夫を楽しみ、それが人の世に役立つ。松右衛門の喜びとは、そういうものだったのではないだろうか。
 松右衛門は自らの信念を、次のように言い表している。
 「人として天下の益ならん事を計ず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」

高砂神社には松右衛門の功績を称えた銅像が建つ

松右衛門帆が使われた丸子船[琵琶湖博物館所蔵]

工楽松右衛門が修理と延長を手がけた、広島県の鞆港の波止が港湾遺産として残されている


工楽松右衛門の歩み

1743(寛保3)
1758(宝暦8)

1785(天明5)


1790(寛政2)
1791(寛政3)
1802(享和2)
1804(文化元)
1812(文化9)

播磨の国高砂(現在の兵庫県高砂市)の船乗り・宮本松右衛門の長男として生まれる。
この頃、兵庫に出て佐比絵町にある御影屋という船主のもと、船乗りとなる。
その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知遇を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持船頭として独立する。
従来の破損しやすい脆弱な帆に代わり、木綿を使った厚手大幅物の帆布の織り上げに成功。
「松右衛門帆」として全国的に普及。
この「松右衛門帆」の考案により、航海術が飛躍的に向上し、結果として北前船の北方領土進出が現実的となった。
幕府より、択捉島での埠頭建設の命令が下る。同年5月、自前の船に資材を積み込み、択捉島へ出発。
この年の夏、択捉島での埠頭建設竣工。
幕府より、「工夫を楽しむ」の意から、「工楽」の姓を賜る。
函館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉平に譲る。
70年の生涯を終える。墓所は現在の神戸市兵庫区にある。