海拓者たち 日本海洋偉人列伝
現在の品川台場(第3台場)
江戸防衛の最終ライン
1853(嘉永6)年の夏、韮山代官であり、徳川幕府の海防掛勘定吟味役格になったばかりの江川英龍は、勘定奉行の川路聖謨ら一行とともに、品川周辺の内海(江戸湾)を巡視していた。
一行の目的は、この年、浦賀に来航したペリーら米海軍に対する、江戸防衛の最終ラインをいかに建設するかという点にあった。それまで幕府は年々来航が増える外国船への対応として、完全な鎖国から、燃料や補給などの場合に限り限定的な寄航を許していた。この段階での江戸の海上防衛方針は、外国船が江戸湾に入る以前に富津−観音崎のラインに要塞化した台場を築き侵入を阻止するという計画であった。しかし、水深の深い海上での台場建設の困難さや建設費用、国産大砲の射程距離などの問題から、この計画は絵に描いた餅であった。さらにペリーの来航により、帆走に頼らない蒸気船が内海に容易に進入できること、なにより射程・威力ともに国産火砲よりもはるかに優れた大砲を多数装備した米艦隊の出現に、幕府の危機感が高まった。
「沖合いに複数の台場を築いて連携させ、さらにこれに沿岸砲台からの射撃も交える。まずは敵船を迎えて攻め、さらに進入すれば横合いから仕掛け、通り過ぎたら追い討ちをする。これをもって、ご府内の海防の要とするしかあるまいな」
英龍はオランダのエンゲルベルツやフランスのサヴァールの築城書を参考に台場建設の建議書を提出、翌月には、自身が指揮を執り、品川台場の築造が始まった。
文武両道の軍事テクノクラート
伊豆・韮山代官を代々務める江川家の第36代当主である英龍は、担庵(たんなん)と号し、通称は代々の呼び名である太郎左衛門を名乗っていた。父を継いで代官となったのは、当時としてはいささか遅い35歳の時である。18歳で江戸に遊学した英龍は、神道無念流の達人・斉藤弥九郎について剣を学び、2年で免許皆伝。その後、兄の病死のため嫡子となり本所にある韮山代官江戸屋敷で、代官職の見習いとなった。さらに代官に就任した1835(天保6)年以降、渡辺崋山や高野長英など革新的政治家や蘭学者たちが集まる「尚歯会」に参画、当時、最新の学問である蘭学に触れることとなる。
時代の最先端を行く蘭学に触れ、また伊豆から相模など、江戸を扼する海岸地帯を領地とする韮山代官という職責、さらに年々増える外国船の来航もあり、英龍は海防と西洋砲術の重要性を痛感。不惑を過ぎて後、西洋砲術の大家である高島秋帆に弟子入りし、西洋砲術を修め、大砲や小銃の生産にも精力的に着手する。
ペリー率いる米海軍の来航に慌てた幕府が、江戸防衛の最終ラインとなる品川台場の建造を英龍に命じたのは、こうした英龍のテクノクラートとしての実績を評価したためであった。
わずか8か月で品川台場を竣工
英龍の計画では、当初、江戸湾の台場築造は品川から深川の洲崎にかけ、海上に11の台場を構築。一定の間隔で砲台となる台場を配置する「間隔連堡」という築城方式で設計された。海に島を築くための埋立に始まり、その上に石垣などの台場上部を構築する工事には、御殿山から高輪の泉岳寺あたりの山を切り崩して埋立用の土砂を集めた。なかでも「土丹」と呼ばれる粘土質の土や工事用の木材などは、遠く横浜や三浦半島あたりから運ばれ、さらに石垣用の石材は伊豆石や真鶴石が使われた。
はじめに5間四方の小島を造ることから始まった台場築造工事は、まさに突貫工事であり、大潮や強風、年の暮れには大雪が降るなど気象条件に苦しめられながらも、わずか8か月で完成する。ただし、当初は11基の予定であった台場は、まず第1〜3、次いで第5〜6、さらに陸続きの御殿山下台場と、合計6基を竣工。第4と第7台場は途中で工事中止、8番台場以降は未着工となった。※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
英龍は台場竣工の翌年、その生涯を閉じた。彼の建造した台場は幸いなことに実戦に使われることはなかった。しかし、そのテクノクラートとしての思想と潮流は、村田経芳や大山巌など、維新から明治にかけて時代を切り開いた若者たちに受け継がれてゆく。
品川台場に残る砲台
江戸後期、台場に据えられた臼砲(モルチール砲)
品川台場計画図・黒船来航図絵巻(横浜開港資料館所蔵)
江川英龍の自画像
江川英龍の歩み
1801(享保元) |
韮山代官第35代当主江川英毅、母久子の次男として、伊豆・韮山にて生まれる。 |