marine joy みなとから“ぶらり”旅

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青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 アクセス:JR東北本線青森駅より徒歩5分

津軽海峡の動脈として80年

 1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルにバトンを渡す恰好で、青函連絡航路は80年の歴史に幕を下ろした。のべ約1億6,000万人の人員と約2億5,000万tの貨物がこの航路で津軽海峡を渡った。
 1908(明治41)年3月の航路開設時に用いられたのは英国船の比羅夫丸。本邦初のタービン式汽船であった。1ヵ月遅れで第二船の田村丸が続き、1日2往復となった。このときすでに片道4時間という画期的なスピードを誇っており、青森や函館の街には「タービン」という看板を掲げる商店が増えたという。洋服や靴などのオーダーメードが「安くて早い」とアピールする意味を込めて店名としたのだ。就航初年度にして1日平均426人、28tの貨客を輸送した。その後、共同運営していた郵船会社が撤退し100%国鉄の運営となると貨客が飛躍的に増え、4年目には780人、288tに達した。
 もちろん順風満帆な80年ではなかった。第二次大戦の大空襲で壊滅状態に陥り、さらに追い討ちをかけるかのように台風の直撃による転覆・沈没で1,430人の死者を出した洞爺丸事故もあった。しかし、やはり青函連絡航路が明治、大正、昭和と三つの時代にまたがって北海道と本州を結んだことによる人とモノの交流、ひいては経済や文化の進展に及ぼした効果は計り知れない。

歴史を伝える最後の運航船

 青函連絡航路の廃止に呼応するかのように、時代も昭和から平成へと移った。昨今では昭和回顧のさまざまな催しが各地で行われているが、ここ青森港では航路最後の運航船が「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」となって保存係留されている。かつて青函を結んだ船は、海に浮かぶ記念館として昭和の空気を人々に伝えているのである。エンジンルーム、鉄道車両を積載した車両甲板、80年の歴史を紹介した記念展示室、大正時代の船内を再現したスペース、操舵室に通信室、煙突展望台など、当時そのままの船内に興味深い展示が並ぶ。運営元の(財)みちのく北方漁船博物館財団の松尾規秀総務課長は「青函連絡船の資料と歴史を伝えるための施設ですが、夏場のミニSLや、フリーマーケットなどの催しにも活用されています」と語った。貴重な産業遺産ともいえる「八甲田丸」は、往時を知る大人には懐かしく、また、子どもには新鮮に映るであろう、魅力的なスポットである。

地元の小学生による八甲田丸の版画。さすが棟方志功の故郷

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸の煙突部分は、展望台として利用されている。

八甲田丸1階の車両甲板。貨車用線路がふ頭まで引かれ、船に直接積載することで輸送効率が大幅に向上した。もちろん船内の床にも線路が引かれ、その跡がいまも残っている

(財)みちのく北方漁船博物館財団 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 松尾規秀 総務課長

大正時代の客室の様子を再現

八甲田丸は浮体係留だ。船の揺れを体感したり、操船設備に手を触れたりすることは、大きな船に乗船経験のない子どもには貴重な体験となることだろう

めしあがれ

じゃっぱ汁
脂の乗ったマダラの身はもちろん肝や白子も、野菜と一緒に煮込んだ味噌仕立ての汁。店でオーダーすると一人前でも椀ではなく小鍋で供される。栄養バランスも上々。厳冬の青森の人々が体の芯から暖を取れる郷土料理だ。

貝焼き味噌
煮干のダシと卵、味噌を練り、青森名産ホタテの身と一緒に貝殻に乗せて焼く。素朴ながら素材の味が活き、かつコクのある味わいだ。昔は青森ではどの家庭にもホタテの貝殻があり、上記のタレだけを焼いて食べたとか。風邪をひいたときの定番だったとも。