名作が生まれた港
富嶽三十六景「東海道江尻田子の浦略図」
天才の生涯の集大成
海外の画壇で「世界で最も有名な絵画作品は何か」という問いが話題になると、答えはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』か、葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖波裏』にたどり着くという。浮世絵が欧米人の目に新鮮に映るアドバンテージがあったとしても、北斎の画風がドガやモネらヨーロッパ印象派の画家にまで影響を与えていることを思えば、納得のいく答えといえる。
富嶽三十六景は天保期(1830年頃)に発表された。文字どおり江戸、関東諸州、東海道などさまざまな場所から望む富士山の眺めを、6年の歳月をかけて描いた作品だ。“文字どおり”でないのは、太平洋側から描いた通称『表富士』36図と、甲州側から描いた『裏富士』10図の計46図で構成されている点。富士山信仰の厚い江戸の人々のあいだで大変な人気を呼び、10図が追加されたのである。
全図が完成したといわれる天保3(1832)年、北斎は73歳。のちに発表した、富嶽三十六景の続編的な『富嶽百景』の後書きに「73歳にして生きものの骨格などがようやくわかった。 90歳で奥義をきわめ、 100歳で神妙となり、 110歳で完成するだろう」と北斎自身が記している。この“予言”はかなわなかったものの、平均寿命50歳そこそこだった時代に90歳まで生きたことと併せて、晩年においても枯れることのない旺盛な創作エネルギーに驚かされる。
富嶽三十六景は、20歳で役者絵師としてデビューして以来、和漢洋の絵画技法を消化しながら独自の作風を打ち出しつづけた北斎の、感性と技術の集大成に位置づけられる作品である。
庶民の想いに応える画題
上に掲げた富嶽三十六景のひとつ『東海道江尻田子の浦略図』は、駿河湾沿いの東海道、田子の入り江からの眺望である。この一帯は、田子の浦、富士川、薩田峠、清見潟、三保の松原、有渡浜、久能山といった古来からの景勝の地を擁し、なかでも薩田の富士、清見潟と三保の松原の絶景は東海道随一といわれた。
この画は、三保の松原から江尻(清水)の宿場、愛鷹山を見、富士山が清らかにそびえる景を描いている。海では漁船が網を引き、向かいの浜辺では塩をつくる人々が働き、塩屋の立ち並ぶさままで克明に描写する感覚は、北斎ならではのもの。また、富士山を極度に青く表現し、ありふれた写実にとどめなかった点も、北斎らしい新奇性として評価されている。
時代をさかのぼれば、山部赤人が「田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」と詠んでいるとおり、島国に住む日本人にとって、海と富士山という心の拠りどころが一望できる田子の浦は特別な場所でありつづけた。北斎は『東海道名所一覧』においても薩田峠や三保の松原を極端に大きく描いており、人々が田子の浦の眺めに寄せた感激に応えている。いまでいうタレントのブロマイドにあたる役者絵を生業としてから生涯を閉じるまで、一貫して庶民の厚い支持を集めた北斎は、これまた今様にいうところの「マーケティング感覚」にも秀でていた、といえば言い過ぎだろうか。
葛飾北斎 Katsushika Hokusai
1760(宝歴10)年〜1849(嘉永2)年。現在の東京都墨田区本所に生まれる。絵師の家に生まれたわけではなかったが、6歳頃には物の形を写す癖があった。青年期は版木彫の仕事に携わったとされる。勝川春章の弟子として春朗として浮世絵師になる。勝川派を離脱後、美人画、読物挿画、看板画、静物画、風景画と画風を変えるとともに宗理、画狂人、為一、卍などの画号を名乗り、各時代ごとに傑作を残した。
写真提供:富士商工会議所 商業観光課
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* 俗称「裏不士十図」。富嶽三十六景は本編36図と、この後編10図を合わせた全46図から成る。
[参考資料]新潮日本美術文庫「葛飾北斎」/月刊美術「北斎『富嶽三十六景』/三保の松原羽衣資料館「羽衣村の風土と歴史」/財団法人 アダチ伝統木版画技術保存財団「アダチギャラリー」