名作が生まれた港
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みなとみらい21(写真提供:横浜市)
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昭和30年頃の横浜港眺望(写真提供:横浜マリタイムミュージアム)
美空ひばり Misora Hibari
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1937(昭和12)年神奈川県横浜市生まれ。12歳でレコードデビュー。「悲しき口笛」が大ヒット。同名の映画も製作され主演を務める。50〜60年代を通じて、シングル売上180万枚の「柔」を筆頭に「悲しい酒」「真っ赤な太陽」「リンゴ追分」などの大ヒットを連発し、歌謡曲界の女王に君臨。70年代以降はポップスからジャズ、オペラまで領域を広げ、1989(平成元)年に没するまで生涯を歌に捧げる。没年、女性で初の国民栄誉賞が追贈された。
港の街が負った深い傷
「天才」「不世出のスター」の称号をほしいままにし、没後15年以上を経てなお人々の心のなかに生き続ける永遠の歌姫、美空ひばり。1957(昭和32)年の大ヒット曲「港町十三番地」は、軽快なリズムとメロディが印象的な、数ある代表曲のなかでも人気の高いナンバーだ。この曲の歌詞は、横浜港周辺の街並みがモチーフだといわれている。「マドロス酒場」は現在の馬車道あたりのバー、「銀杏並木の敷石道」「波止場通り」は山下公園通りとのこと。異国情緒あふれるみなと街の夜、マドロスたちはネオンの下で酒を酌み交わし疲れを癒す。わずかな滞在を終えると、大切な人と別れを惜しみつつ再び旅立っていく。昭和30年代当時の横浜では、しばしば見られた姿なのだろう。しかし、この歌が作られる10年ほど前の横浜を思えば、ありふれた光景とは片付けられない、しみじみとした感慨が浮かび上がる。
1945(昭和20)年5月、B29の大空襲により全世帯の50%近い10万戸が被害を受け、横浜は焦土と化した。8月には連合軍最高司令官マッカーサー元帥が横浜に入り、ほとんど無傷で残った港湾施設や中心部のビルなどを米軍が接収。他の地域は壊滅状態で、市民は深刻な住宅不足と食糧難に苦しむ。同年の9月までは1日に平均2名、11月からは平均3名が栄養失調で命を落としたという。一部、米軍の好意による道路補修があったものの接収が復旧の遅れをもたらした。「港町十三番地」に描かれた光景が見られる余裕など、かけらもなかったのである。
米国文化を復興のエネルギーに
しかし、開港まもなくして外国人居留地が置かれ、日本を代表する貿易の街として栄えてきた横浜は、やがて復興が進むと、米軍の存在に対しても持ち前の懐の深さで馴染み、元気を取り戻し始めた。昭和20年代中盤にアメリカ中古衣料の売り出しが始まり、アメリカン・スタイルを身にまとった“ハマっ子”が街を闊歩する。そしてジャズの流行。日本人がジャズバンドを結成して、米軍キャンプや米兵相手のクラブでライブを行い、好評を博した。
政治的な議論はさておき、米軍が拠点を置いたことにより、生粋のハマっ子のなかには「これで昔のハマに戻れる」と感じた者がいたことは事実だろう。戦前までの古き良き外国文化、戦後は米国文化を吸収しながら復興の道を歩んだ横浜。この街特有のバイタリティは、現在のみなとみらい21に至るまで脈々と受け継がれている。
横浜の空気を横浜の声に乗せて
時間軸を再び終戦直後に戻そう。1948(昭和23)年、横浜国際劇場で11歳の少女が職業歌手として初舞台を踏む。彼女はすでに地元では天才少女として知られ、コンクールでは大人をさしおいて入選し、小規模な巡業も経験。横浜国際劇場に出演したときにはすでに芸名「美空ひばり」を名乗っていた。当時、大人の世界を見事に歌い上げる幼いひばりに対し、「小生意気だ」とでも言いたげな反応を示す大人も少なくなかった。しかし、横浜国際劇場初舞台の翌年には東京・有楽座「春のヒットパレード」に出演、レコードデビューも果たし、その年のうちに映画「悲しき口笛」の主題歌をヒットさせるという快進撃。映画は、兄の作曲した歌を歌いながら兄の復員を待つ花売り娘と、貧しくもけなげに生きる人々の姿が、波止場ギャングに身を落としていた兄を立ち直らせるというストーリーで、舞台は桜木町駅前の闇市だった。
米国の影響が色濃い横浜は、敗戦から立ち上がろうとする日本の姿を描くのに格好の街だったのだろう。後年の「港町十三番地」には、戦争の傷が癒え高度成長期を迎えんとする時代の空気が込められ、横浜が生んだ天才歌手・美空ひばりの声に乗って日本中に届けられたのである。
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昭和30年頃の大さん橋(写真提供:横浜市)
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「銀杏並木の敷石道」「波止場通り」とされる昭和30年頃の山下公園通り(写真提供:横浜市)
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現在の山下公園通り
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「マドロス酒場」があったといわれる昭和30年頃の馬車道(写真提供:横浜市)
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現在の馬車道
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[参考文献]中区史(横浜市中区)/ 西区史(横浜市西区)完本美空ひばり(竹中労著・筑摩書房)