PORT REPORT 新みなとまち紀行
Cover Issue 静穏な瀬戸内海、沖に浮かぶ島影の数々。今治港は、その景観が観光需要の的となる一方、アジアを中心とした海外、中国・九州地方および周辺離島との物流・人流拠点という重要な役割を担ってきた。1999(平成11)年の西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)の開通は、今治港にもいっそうの注目をもたらした。それは、人流が活発化した街のシンボル、そして海陸一貫複合輸送基地という新たなポジションに対する期待である。
今治港の歩み
今治港の起源は、1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの功により、この地を与えられた藤堂高虎が舟入船頭町を開いたことにさかのぼる。もっぱら小舟が出入りしていたが、1876(明治9)年、初めて蒸気船が寄港して以降、当地の商工業の発達に伴って船舶の往来が盛んになった。
1921(大正10)年には重要港湾に指定、翌22年に外国船の出入りが許可された四国初の開港場に指定された。その翌年から9ヵ年に渡って港湾の拡大改修が行われ、現在の港に近いものになった。
1959(昭和34)年に民営では全国で初めてカーフェリーが就航し“カーフェリー時代の到来”は、今治港に著しい発展をもたらした。
平成に入ると多様な荷姿の外貿貨物の取扱いに対応するため、富田地区に新しい港を整備し、1995(平成7)年に供用を開始。翌年には四国で最初のガントリークレーンが設置された。
今年で開港85周年を迎えた今治港は、現在も、地域の発展と活性化の基盤でありつづけている。
アクセス
[空路]松山空港から車で約1時間20分
[車]西瀬戸自動車道「今治I.C.」から20分
[鉄道]予讃線「今治駅」からバスで10分
街と港が一体となって歩んできた歴史と今日、そして未来へも
地域経済を牽引しつづける港
2005(平成17)年1月、旧越智郡11ヶ町村と合併し、新しい今治市が誕生した。人口約18万人は、松山市に次いで県内2位である。
予讃線今治駅から今治港にかけてのエリアが中心街。なかでも、大規模な百貨店を擁する商店街や市役所、通りを頻繁に行き交う人と車など、港へ近づくにつれて活気が増していくようだ。街の成り立ちをひもとけば、これがただの印象ではないことがわかる。
市政が施行された1920(大正9)年、すでに港には船舶が頻繁に出入りしていたため、今治地区の東防波堤の築造に着工。1922(大正11)年には、四国初の開港場(海外の船が出入りできる港)に指定され、同時に神戸税関今治税関支署も開設された。まさしく街と港が一体となって、近代化への一歩を踏み出したのだ。
その後の歩みも、まさしく『みなとまち』の呼称がふさわしい。今治市は、綿糸紡績やタオル、織物、縫製品などの繊維産業が盛んである。なかでもタオルは全国シェア60%という一大地場産業だ。また、造船業や関連産業の工業地帯も広がっており、今治港は原材料と製品の移出入の拠点となる商港として、地域経済の発展に大きく寄与してきた。
一方、外貿については、1955(昭和30)年に植物防疫港の指定を受け、農作物の輸入を開始。さらに7年後に木材輸入港に指定されたことが、本格的な国際貿易港としてのポジションを決定的なものにした。
さらに時代を下ると、カーフェリーや高速船、大型船舶など、今治港の需要は広がっていき、それに応じて港湾施設の整備が進められてきた。現在の今治港は、元々の開港場にあたる今治地区から南西に向かって順に蔵敷・鳥生地区、富田地区で構成されており、それぞれの機能分担のもとで利用されている。
[写真左]中・四国を代表する輸送拠点、今治港
[写真右]今治地区が最初に港として開かれた
[写真左]蔵敷・鳥生地区はバルク貨物(ばら積み貨物)を専門に取扱う
[写真中]多目的国際ターミナルとして利用される富田地区
[写真右]大正時代、築港まもない頃の今治港(「今治港80年の歩み」より)
人流・物流の基地が向かう明日
今治地区は、九州地方と阪神地方を結ぶ大型カーフェリー、島しょ部や中国地方を結ぶフェリー・高速船の発着所として利用されている。瀬戸内海国立公園へアクセス至便な観光港であるとともに、島しょ部の住民にとっては生活圏の要である。
蔵敷・鳥生地区は、主に鋼材や砂利・砂・セメントなどを取り扱う貨物専用港。1970(昭和45)年、船舶の大型化と貨物量・乗降客数の急激な増大に対応するべく港湾施設の拡張が認可され、蒼社川河口のこの地区が開発対象となる。10年の歳月を費やして、すべての港湾施設と用地造成が完成した。
富田地区は、今治港における国際貿易の機能を担う。昭和50年代後半には船舶のさらなる大型化やコンテナ貨物の増加などに対応するため、水深−12m・延長240mと水深−10m・延長185mの2バースが整備され、1995(平成7)年に供用開始。翌年には四国初のガントリークレーンが設置され、名実ともに四国最大級の多目的国際ターミナルの始動へと至った。
現在、富田ふ頭には週4便の日韓定期コンテナ航路が稼動しており、釜山港を中継として主に東アジア諸国と結ばれている。また、ふ頭の背後地に物流機能用地として港湾関連用地と工業用地を確保しており、今後は西瀬戸自動車道や今治小松自動車道、四国縦貫自動車道といった広域高速道路網との連携を強化し、中・四国における海陸一貫複合輸送の中枢拠点を目指す。富田地区を訪れたときに仮置きされていたスリットケーソンは、漁礁としても機能するタイプ。未来ある港としての環境への配慮を感じさせられた。
旅客・市民の人流と国内・海外にわたる物流という、港に課せられるミッションを十二分に果たしてきた今治港。時代とともに多様化・高度化するニーズに、これからも応えつづけていく。
[写真左]富田ふ頭に設置されたガントリークレーン
[写真右上]魚類の生態への影響に配慮したスリットケーソン
[写真右下]富田ふ頭には魚釣護岸も設けられている
まちの発展を支えてきた港
今治港は、開港場の指定も定期コンテナ航路の開設も、ガントリークレーンの設置も、すべて四国初。非常に需要の旺盛な港であることがわかります。しかも、島しょ部の方々にとっては古くから生活拠点の一つでした。まさに、まちの発展を支えてきた港です。
西瀬戸自動車道の開通以降、一部の需要がそちらに流れたことは確かですが、港が重要な役割を果たしつづけることに変わりはありません。周辺の高速道路網と連携した複合輸送によって物流コストの低減を図る動きもあります。また、社会の高齢化が進むなか、車の運転が困難な高齢者にとって、船は欠かすことのできない交通手段です。
富田ふ頭には大手の石膏ボードメーカーなども立地しています。今治港が地域に波及させる経済効果は、依然大きいと言えるでしょう。(談)
国土交通省 四国地方整備局 松山港湾・空港整備事務所 企画調整課 渡邊辰也係長