『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
新たな交流の時代に向けてまちおこしに取り組む
坊津では昭和63年から「日本三津交流会議」が行われている。かつて日本三津と呼ばれた坊津と博多、三重県津とが交流会を持ち、地域活性化をはかろうとするものだ。三年に一度の交流会では坊津町民が博多の山笠祭りに参加するなど、成人を中心とした交流が中心だった。平成9年、交流会議が発足して10年になるのを記念して子どもたちに海を通じた交流の歴史を感じてもらいたいという主旨のもと、小中学生を中心とした交流会が行われた。
このときの「日本三津交流会議」では、福岡市、津市、坊津町の3都市の中学生十数人が復元された咸臨丸に乗船し「親善大使」として互いの町を訪れた。それぞれの海の町で育った子どもたちは、咸臨丸での航海やデッキ磨き、マスト登り、ロープワーク教室などの船内研修を通して海とのふれあいを体験し、交流会などのイベントで相互の親睦を深めたという。
現在高校2年生の中野ひろみさんは、このイベントに参加した親善大使の一人だった。
「航海はとても楽しいものでした。船の上では船員さんにロープの結び方や手品を教えてもらったり、船上での食事や、マスト上りなども初めての経験でした。すごく高くて恐かったけど、今では貴重な体験として心に残っています。博多では参加者が体育館のような広いイベント会場でゲームや意見交換で交流を深めることができました。またこういうイベントがあったらぜひ参加したいですね」
中野さんはふだんは、自分が住んでいる町にとても古い歴史があることを特別意識することはないが、この体験を契機に一乗院跡を見学したときなど「違う世界があったんだ」と改めて驚いたそうだ。
中野さんたち親善大使を引率した小原さんは、福岡市を訪問した際、市長が語った「自分の町が大きいか小さいかは関係ない。自分の生まれた町に誇りを持ってください」という言葉を今も鮮明に覚えている。
まちおこしにも熱心にとりくんでいる小原さんは年に4回、「ふるさと情報」というミニコミを発行している。坊津にまつわるさまざまなニュースをまとめて東京に住む坊津出身者などゆかりの人々に送っているのだ。
小原さんは坊津の海に沈む夕日を「日本一の夕日」だと自負している。「山が海に迫ったリアス式海岸ならではの雄大な眺めは、日本のどこにも負けません」。遣唐使や唐の人も見たであろう夕日は、今も変わらず坊津の海を赤く染めている。
COLUMN
多彩な国際交流の歴史を物語る「倉浜荘」
坊津では遣唐使船の時代のあと、鎌倉・戦国時代にも大陸との交易が盛んに行われていた。そのころは日本から硫黄や刀などの武器が輸出され、漢方薬や絹織物が輸入されていたという。
鎖国令が出されてからも島津藩の財源として貿易は続けられていた。唐物(からもの)と呼ばれる陶器や絹は莫大な利益を生んだため、幕府も暗にこれを認めていたという。坊津の港沿いには交易で富を得た商人が豪勢な蔵や屋敷を建てていた。
そのうちのひとつ、坊地区に残る「倉浜荘」(密貿易屋敷跡)という建物は江戸時代、森吉兵衛という豪商が建てたもの。商談のための事務所として使われていた。建物は外からは平屋に見えるが、中には階段をかけなければ上れない隠し部屋の中2階があり、その一方からは入江が、もう一方からは玄関に出入りする人々が見える。手で押すと一見板壁に見える扉がぱっと開くなど、忍者屋敷のような仕掛けも鎖国下で行われた海外貿易の拠点をカムフラージュするためのものだ。りっぱな木材をふんだんに使った造りは、当時の豪商の勢いをしのばせる。
この倉浜荘は以前は旅館として使われていたが、七代目当主である森洋三さんが現在、坊津から離れたところに勤めているため基本的には公開していない。「定年退職したら戻ってみなさんに見てもらいたいと思っています」という森さん。これだけの建物になると維持するのもなかなか大変だそうだが、歴史の証人として再び往時の姿が見られる日が待たれる。
坊の入江のすぐ近くにある倉浜荘は、ひかえめながらも堂々たるたたずまい
倉浜荘の石垣や植え込みは、今もていねいに手入れされている
久志の入江に沈む夕日が海を朱で彩る。変化に富んだ岩や島の影が独特の景観を生む
港に停泊する漁船。後方に見えるのはかつての遣唐使船を模したグラスボート。船底がガラスになっていて、海中の魚やサンゴを観察することができる
写真/西山芳一