『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
「万葉集のふるさと」に抱かれた港 伏木港 伏木地区/高岡市
伏木富山港の三地区のうち一番西側に位置するのが小矢部川の河口部に広がる高岡市の伏木港だ。1663(寛文3)年に幕府の指定港となり船政所を設けて以来、沿岸交易の要港として栄えた。大正から昭和にかけて大改修が行われ、その後、紙パルプ、化学を中心とする臨海工業地帯や、石油基地の造成が進められてきた。現在は主に石油製品や非鉄金属等を取扱い、県内外の経済基盤を支える港湾として重要な役割を果たしている。ロシアのナホトカ、ワニノ、ボストーチヌイを結ぶ貨物定期航路に加え、平成5年から夏季にはウラジオストックとの間に旅客定期船も年3〜10航海配船されている。ますますにぎわいを見せる伏木港だが、河口港の宿命として上流から流出する土砂の堆積や、船舶の大型化に対応すべく、現在外港への展開が進められている。
国際港湾都市として発展を続ける一方、日本の文化、歴史を後世に伝えるため、高岡市は万葉の詩情あふれる文化都市を目指し、「万葉のふるさと」づくりを進めている。「高岡市万葉博物館」は映像と音で構成された展示が人気を集め、万葉研究のメッカとしても有名だ。746(天平18)年、「万葉集」の代表的歌人で選者ともされる大伴家持が越中国守として伏木の地に着任した。家持29歳、歌人としても絶頂期にあった時のことである。5年間在任し、その間富山を詠んだ歌は270余首にものぼる。立山連峰を背景にした白砂青松の景勝地、日本の渚百選の一つでもある雨晴海岸を詠んだ歌も残されている。高岡市は「万葉集」に関係のあるさまざまな事業を展開しており、万葉文化に関心を寄せる全国の地域や人々と交流が深まりつつある。
次世代のウォーターフロント 開かれた港湾空間の創造を目指して
伏木富山港を訪れて気が付くのは、人と海との距離の近さだ。各港に親水公園や展望台などの施設が整備されている。美しい海辺の景勝地も多い。一昨年に改訂された港湾計画には「国際貿易港としての機能の強化・高度化」「船舶の大型化への対応」「臨港交通体系の強化」など物流機能の充実に加え、「人々の生活に密着した港づくり」がテーマとして掲げられている。町づくりと連携し魅力あるウォーターフロントの整備、運河を活用する水辺空間の再開発、埋立地を利用した日本海ミュージアム構想などが計画されている。
環日本海時代のイニシアチブを握るべく、伏木富山港は工業港湾、流通港湾、そして人と海を結ぶ快適なベイエリアとして次世代に向け着実に進化を続けている。
小矢部川に面する伏木港内港部。1万t級の船が6隻係留できる岸壁を備えている。外港では−14m岸壁の整備も進行中だ
空から見た伏木港。外港部の整備が進められている(写真:富山県)
高岡商工会議所伏木支所はもとは明治41年に銀行として建てられたもので、現在は国の登録有形文化財に指定され、市民に公開されている
高岡市の文化財に指定されている旧秋元家住宅。現在は伏木北前船資料館として船幟や船具が展示されている。船の出入りを監視する望楼が設けられている
親水護岸や公園、展望台なども整備されている富山新港。市民に親しまれる港の整備が進む
雨晴海岸は四季折々に変化する美しさを見せてくれる
写真/西山芳一
COLUMN
伏木港開港の祖 藤井 能三
藤井能三肖像
築港後の伏木港(右岸)大正2年
明治のはじめ、富山県高岡市に未来を見据え、人生を賭して港湾整備に取り組んだ人物がいた。今でも開港の祖として尊敬を集める藤井能三(1846〜1913)その人である。能三は越中(現 高岡市伏木)能登屋三右衛門の長男として生まれた。能登屋は廻船間屋の豪商で、父、三右衛門も自費で波除け工事に取り組むなど地域に尽力した人物だ。この工事は能三に受け継がれ、彼が手がけた数多くの公共事業の最初のものとなった。
日本が明治の変革期にあった時代、1869(明治2)年加賀藩の命で神戸に出た能三は、神戸港に蒸気船が走り、多くの物資でにぎわう様子を見て、「このままでは伏木の港は新しい時代から取り残されてしまう」と考えた。伏木に戻った能三は、まず次世代を担う人材の育成を目的に伏木小学校を創立する。当時の寺小屋や私塾と異なり、授業に地球儀を用い、英語まで教える富山県初の近代的な小学校であった。
次に能三は、当時日本最大の汽船会杜だった三菱汽船に交渉し、1875(明治8)年洋式汽船によって伏木と東京・大阪・北海道・北九州を結ぶことに成功する。さらに1878(明治11)年伏木港修築を正式に政府に申請し、1881年には難所親不知を回避する直江津への直行蒸汽船航路を開設するなど積極的に活動を展開する。ところが激しい競争のすえ、遂に1885年、折からの経済不況の中で能三は倒産してしまう。しかし、能三は人々を期成同盟などに組織することに努め活動を続ける。
1891年ごろには「伏木築港論」を著し、シベリアとの近接を述べ、対岸貿易を前提として、伏木港を近代港湾に発展させることを説いた。1902(明治35)年庄川と小矢部川の切り離し工事が県の協力によって国事業として始まったが、彼が一生をかけて取り組んだ庄川改修、築港両工事が完成する半年前の1913(大正2)年4月20日、能三は66歳で激動の生涯を閉じる。
伏木の港と町並みを一望する伏木小学校の運動場に藤井能三の銅像が立てられている。毎年命日には能三の業績を称える行事が行われている。