『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
港湾開発の先鞭「勇払築港論」と苫小牧港の誕生
50歳を迎えた西港区では老朽化した部分の補修等が主となり、開発事業の中心は現在東港区にシフトしている。背後に広さ1,100haの広大な開発用地を有する東港区では、今年度から中央水路地区において新たな多目的国際ターミナルの−14m岸壁の整備が進められている。船舶を東港区に誘導し、西港区における船舶の混雑緩和や、航行の安全確保を目的とした整備事業だ。浚渫された土砂は道路をまたぎ、JRの線路を越えて後背地に圧送される。この岸壁は平成14年度に−10mで暫定的に供用が開始される。また隣接する周文ふ頭には平成11年に新たな日本海航路のフェリー航路も開設され、これによって苫小牧港の昨年度の取り扱い貨物量は過去最高を記録した。
こうして北日本最大の港に成長した苫小牧港だが、前述したようにかつては太平洋に臨み、果てしなく続く砂浜に過ぎなかった。ここで苫小牧港の歴史を俯瞰してみよう。
江戸後期からの貴重な資料を集めた勇武津資料館の佐藤一夫館長に築港前史ともいえる江戸期の苫小牧を語っていただいた。「この一帯はかつて勇払と呼ばれていました。勇払川は今は海岸付近で安平川と合流して太平洋に注いでいますが、かつては内陸から海岸線に接近した後、砂浜に平行して流れていたんです。ここは川を辿ってきたアイヌの丸木舟と、北前船をつなぐ物資の集散拠点でした」。厳しい自然環境において北海道の物資の輸送は船運に依存することが多かった。千歳などの内陸部から河川を巡りウトナイ湖を経て運ばれた荷は、砂州の反対の海上で待つ北前船に移送され全国に移出された。「内陸ばかりではなく千歳のさらに北、石狩まで続く船運、陸運の道、いわゆる『勇払越え』のルートが太平洋と日本海を結んでいました」(佐藤館長)
その後、明治期から大正期にかけて勇払は漁港として注目されるようになる。漁港機能の強化が要請されるが、太平洋の波は海浜の砂を翻弄し、荷揚場を造っては流されるという大変な苦労が続く。
また当時の道内の基幹産業を担っていたのが石炭である。この石炭を機能的に流通させるための方策が大きな課題となっていた。大正13年、32歳の若さで留萌港所長に就いていた林千秋氏が「北海道ニ於ケル石炭港ノ将来ヲ如何ニスヘキカ」として「勇払築港論」を提唱する。すでに石炭積出港として定着していた室蘭へのルートをショートカットして物流コストを抑制する発想だ。勇払が石狩炭田、空知炭田まで短距離にあるという優位性から、同炭田の石炭を鉄道で勇払まで運び、ここから船により移出するという構想だった。林氏は勇払は砂の移動を制御しつつ、石炭港として必要な内陸掘削には絶好の地勢にあり、技術的にも決して難工事ではないと説いている。
そこへ勇払築港により貨物を奪われる室蘭から猛烈な反発の声が上がる。それに屈する事なく直訴ともいえる陳情を繰り返すが、残念ながら北海道に対する政府の意識の低さ、大戦による中断などが障害となり「勇払築港論」は歴史の表舞台から姿を消す。
しかし勇払に港をという強い意志は受け継がれ、昭和26年8月、晴れて苫小牧港起工が実現する。翌27年には具体的な港湾計画も策定され、日本最大の掘込港湾、苫小牧港の建設が開始された。昭和29年、アイソトープによる漂砂追跡調査が実施され、昭和35年に内陸の掘り込みが開始された。第一船が入港したのは昭和38年。そのとき苫小牧港を訪れた林氏は、出港していく石炭船を目にし、石炭を頬にあて感激のあまり男泣きしたという。
江戸期の苫小牧周辺(「東蝦夷地ユウフツ場所の図」苫小牧市博物館所蔵)
外貿コンテナを扱う西港区の入船ふ頭(左手)とフェリーふ頭(右手)
5航路、13隻が就航する西港区のフェリーふ頭。北海道の海の玄関として年間80万人もの利用者がある
西港区南ふ頭では北米からのチップ、パルプ、鋼材などが主な貨物だ
西港区のコンテナヤード。苫小牧港の取扱い貨物量は毎年順調に伸びている
東港区の全景。多目的国際ターミナルや大型岸壁の整備が進む(写真:苫小牧港管理組合)
右手に見える浚渫船から圧送された土砂は、線路、道路を越えて排送され湿地帯の土地造成事業に利用されている
東港区に新しく開設されたフェリーターミナル。対岸は北海道電力(株)苫東厚真火力発電所