『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
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「火を吹く鉄の棒」を伝えた門倉の浜
赤尾木の築港から溯ること300年前、西洋技術の粋ともいえる鉄砲がこの島に伝えられる。
1543(天文12)年、中国の冒険的豪商王直の船団が広東湾を出港する。45mの船体に3枚の帆を張り、20枚以上の総飾りを翻した壮麗な船であった。王直は警戒の厳しくなった明国沿岸を避け、日本周辺の島に拠点を築こうとしていたという節もある。途中広東の北、上川島で8名のポルトガル人を乗船させ、さらに航海を続けるが、トルコ海賊の襲撃や台風の直撃で船団は壊滅、王直は単独で琉球列島を北上した。港ごとに入港を拒否されたどり着いたのが種子島南端の西之村門倉岬であった。村の宰領西村織部丞と正装した王直は砂に漢字を書き連ねながら筆談を交わし、意志の疎通を図ったという。このときポルトガル人が携えていた「鉄の棒」が、後の日本の勢力地図、ひいては歴史の流れそのものを変えてしまう「鉄砲」である。
南から迫る黒潮は南西諸島の西を通り、屋久島、種子島の南端をかすめて北東へ進む。広大な海を越えて異国のものがこの島にたどり着くのは必然とも言えるが、歴史を動かす程の「鉄の棒」の伝来は、他に類を見ない大事件とも言えるだろう。
門倉岬の突端は現在美しい公園が整備され、「鉄砲伝来紀功碑」も建てられている。しかし革靴では到底行きつけそうもない岬の東の崖下にもう一つの碑を見つけた。「鉄砲伝来 葡萄牙人上陸之地」と刻まれているこの石碑のかたわらで、目線の高さで海を眺めて見ると、巨大な異国の船が突如として現れたときの当時の島民の驚きがよみがえってくるようであった。
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鉄浜海岸には今でも砂鉄が湧き出ている
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門倉海岸の記念碑には「鉄砲伝来 葡萄牙人上陸之地」とある
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製鉄技術にたけた島の鍛冶職人は鉄砲の研究に明け暮れた
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鉄砲を伝えた明船が漂着した門倉の海岸