『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

1859(安政6)年、幕府は米国との間に締結された通商条約に基づき、それまでの鎖国を解いて、横浜港を開く。
当時の横浜は水深も浅く、施設らしい施設もないひなびた農漁村に過ぎなかった。
以来わずか140年の間に目まぐるしい発展を遂げ、日本を代表する国際港湾に成長した。
そして現在、21世紀を迎えた横浜は
「港」と「都市」と「人」が理想的な形で融合する国際港湾都市として進化を続けている。

(写真:横浜市港湾局)

横浜港

百戸足らずの寒村から国際港湾都市へ

 1853(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。目的は鎖国政策の解除と拠点港の開港である。幕府はこの要求に応じ、1859(安政6)年7月、神奈川、長崎、箱館を開き、外国との自由貿易を許した。文明開化の幕開けである。しかし日米修好通商条約に臨んだアメリカ総領事ハリスが希望した開港候補地の中に「横浜」は含まれていなかったという。幕府は「条約締結ゆかりの地」、「江戸からの距離的な優位性」を理由に「神奈川」と呼ばれていた横浜の開港を強く提案した。ハリスはその提案を受け入れたが、ハリスが想定していた「神奈川」とは当時から東海道の宿場町として開けていた神奈川宿(現在の東神奈川付近)であり、幕府がいう「神奈川」即ち「横浜」とは位置的なずれがあった。それでも幕府は横浜の開港を強く主張し半ば強引に開港場を造ってしまった。その背景には外国人と日本人の頻繁かつ直接的な接触を避けたい幕府の意図があった。双方の思惑が交錯しながら横浜港の歴史の幕が開けられた。
 横浜港の港湾整備は現在の大桟橋の付け根にある「象の鼻」防波堤の築造から始まる。はしけや汽艇によって生糸、綿織物、茶などの荷役が盛んに行われるようになった。

 1889(明治22)年、市政が施行されるころから本格的な近代港としての整備が進められる。1894(明治27)年に横浜築港桟橋(現大桟橋)、1911(明治44)年には新港ふ頭の埋立がそれぞれ竣工し、港としての基盤はほぼ整備された。新港ふ頭の赤レンガ倉庫(2号)もこの頃整備されている。横浜から川崎にいたる海岸は工業用地として整備が進み、ここに日本の高度成長期を支えた京浜工業地帯も産声をあげる。人口数百人ほどの小さな海辺の村が、わずか半世紀の間に驚異的な発展を遂げたことになる。

 しかし、1923(大正12)年9月1日、横浜港はかつてない大きな試練に遭遇する。この日襲いかかった関東大震災によって、開港以来築かれてきた港湾施設は一日にして瓦解した。しかし昭和初期までに港は驚異的な速さで復興し、さらにこの震災をバネにするかのように、新たに宝町、大黒町の開発も進められた。

 第二次大戦後、昭和26年の港湾法施行によって新たに横浜市が港湾管理者となった。その後、貨物取扱量の急激な増加に対応すべく山下、本牧、大黒などのふ頭整備が積極的に進められ、日本を代表する国際港湾に成長した。そして現在も横浜港は次の時代を見据えながら進化を続けている。

18世紀頃から日本近海に外国船の来航が相次ぎ、幕府は開国を迫られる(弘化丙午夏所来於浦賀港佛朗機船縮図/横浜市中央図書館蔵)

整備が進む「みなとみらい21」

横浜港の歴史は「象の鼻防波堤」の築造から始まった

世界最大級のクレーンがそびえる南本牧ふ頭

本牧ふ頭と大黒ふ頭を結ぶ全長860mの横浜ベイブリッジ

本牧ふ頭は日本を代表する物資の集散拠点だ

南本牧ふ頭ではコンテナヤードを整備するため埋立が進む(写真:横浜市港湾局)

国土交通省関東地方整備局京浜港湾工事事務所企画調整課 佐藤 義博 課長