『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
本州と九州の結節点に位置する北九州港は、東は周防灘、北は響灘に至る広大な港湾だ。
内湾である洞海湾を含めた港湾区域は約1万6千haに及ぶ。
東南アジアや中国、韓国をはじめ世界各国と結ぶコンテナ航路、関東、関西とのフェリー航路を縦横に張り巡らした西日本の内外物流の拠点である。
その200km近い水際線をたどりながら見えてきたのは、様々なテーマにひるむことなく果敢に挑みつづける港湾の姿だった。
北九州港 若松地区 戸畑地区の遠景
北九州港
次世代港湾のテーマに挑む北九州港
北九州地域の港は古くから遣唐船、遣明船の碇泊地として、また江戸時代には藩貢米や焚石(石炭)などの積出港として利用されていた。さらに1700年程前からすでに大陸との交易が行われていたという記録も残っている。しかし古い歴史を有する港とはいえ、城下町の小倉以外は明治の初期にいたるまでは大規模な築港事業が展開されることはなかった。近代港湾としての道を歩み始める端緒となったのは明治期における産業革命だ。筑豊の炭田が開発され、国内有数のエネルギー供給地となると、石炭の積出しに有利な若松地区を中心に港湾整備が本格化する。これ以降、北九州港の前身である3つの港、すなわち「外貿の門司」、「内貿の小倉」、「工業の洞海」がそれぞれの特色を活かしながら、この地域の港勢を急速に進展させた。
第二次大戦によって荒廃した各港は、厳しい状況の中、港湾機能の復旧に立上がる。昭和30年代にはそれぞれ港湾計画を策定し、施設の整備拡充と臨海工業用地の造成に着手するまでに回復した。昭和38年、北九州地域5市が合併、北九州市が発足するとその翌年、門司、小倉、洞海の三港も統合され「北九州港」が誕生する。以来、広大な港湾区域を最大限に活かしながら、港湾貨物の増大や船舶の大型化に対応すべく、ふ頭や用地の整備が積極的に展開されてきた。
そしていま、北九州港はアジアから世界までを視野に入れ、新たな課題に挑んでいる。国際ハブポートの構築、新たな手法による港湾運営やハードの整備、特区制度を活用した港の活性化。さらに、リサイクルポートの整備や市民と連携した港まちづくりまで、そのテーマはまさに次世代をみすえた港湾の創造である。
小倉駅に程近い砂津地区は古くから栄えたエリアのひとつ
若戸大橋周辺のかつての岸壁は遊歩道として保存されている
ロマンチックな風情が漂う門司港レトロ地区
関門海峡を挟んで本州との結節点となった北九州港(写真:国土交通省 九州地方整備局)