21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.2] 北海道・小樽港北防波堤 資料編
廣井勇(1862〜1928)
高知県出身。明治14年(1881)に札幌農学校(現北海道大学)を卒業、明治16年(1883)に単身で渡米し、鉄道会社などを通じて主に橋梁工学などを修得する。その後、ドイツ留学を経て明治22年(1889)に帰国。札幌農学校教授をへて明治32年(1899)から東京帝国大学教授をつとめる。この間、道庁技師、初代の小樽築港事務所長などを兼ね、函館、室蘭など道内の重要港湾で施設の設計、監督を手がけた。第6代土木学会会長。
「千年にわたる技術者の栄誉と恥辱はひとえに設計の如何にある」。廣井勇は著書「築港」の中で、こう強調する。土木技師の心構えを説き、工事の評価を後世に託したものだ。技術者は工事が完了した段階で役割も終わったと思いがちだが、それを記録として残し理論としてまとめたことが近代港湾の父といわれるほどの権威を生んだ。
理論の代表的なものに、昭和50年代まで日本の防波堤設計に使用された「廣井公式」がある。これは波の算定に関するもので、波力を波高に直接結びついた形で提示していることに特徴がある。小樽港北防波堤の建設にともなう波力観測など地道で入念な調査から生まれたものだ。
これ以外にもアメリカ留学時代には「プレートガーダー橋」の設計書を著し、アメリカで大きな評価を得る。この本は教科書的に活用され、この本をもとに設計されたアメリカ国内の橋は100以上に達する。さらにドイツ留学時代に学んだ不静定構造物の解法をわが国に知らしめた業績も大きい。
供試体
ミハエリス二重てこ式試験機
積畳機械
積畳機械の設計図
工事費
北防波堤の工事は堤防の築造だけでなく、浚渫、岸壁、陸上設備(方塊の製作工場、船入場)をともなった。防波堤そのものは明治30年(1897)の着工から5年後の明治36年(1903)に894mが完成、日露戦争の余波で予算が削減され予定より工期は1年延びたものの、明治41年(1908)に全体が完成した。総延長1,289mである。総工費は2,189,066円。内訳は防波堤費1,724,956円、港灯費5,092円、器具機械費222,374円、工場費91,180円、監督費145,464円である。セメントの購入費は653,070円で総工費の約30%を占めた。
百年耐久性試験
供試体(ブリケット)は中央部がくぼみ、“ひょうたん”のような形状。両端をつかんで引張力をかけて切断時の荷重を求める(抗張力)。機械はミハエリス二重てこ式試験機が使われた。
試験は材齢1週間、4週間、2カ月、1年、2年、4年、5年、7年、10年、それ以降は5年ごとに実施されている。明治29年(1896)の第1回以降、これまでのべ1万回以上も実施されてきた。試験データはすべて記録されている。
供試体試験は、火山灰を使用したものと使用しないものをそれぞれ空気中と海水中に保存した4種類に分けて実施してきた。100年試験の結果、空気中に養生したものは火山灰の有無による強度の差が小さいのに対して、海水中の場合、火山灰を入れたものは、強度の発現が早いことがわかり、防波堤コンクリートに火山灰を入れる効果が実証されている。
耐久性試験のために、全体を総括する「台張」がつくられた。ここに予定試験期間が示されており、最長は50年間となっている。したがって廣井が試験を始めた段階では、まず50年の試験を計画したものと推察されるが、大正時代に100年を超える別シリーズの試験が開始された。誰が百年耐久性試験を考えたのかも、いつから百年耐久性試験と呼ばれるようになったのかも明らかではない。
供試体には、製作年月日と養生方法が記されている。北防波堤の着工前年の明治29年(1896)から、南防波堤などの工事とともに昭和12年(1937)まで40年間にわたり製作された。
積畳機械
機械は蒸気機関による直動式で、明治31年(1898)にイギリスの工場で製作された。コンクリート方塊の据え付けと積畳に使用する。総重量は100t。その仕様は巻上げ速度毎分2〜12m、遷動速度毎分8.5m、封重容積52㎥などとなっている。
使用方法は、まず軌間6mの軌道によって堤の突端に進め、後部の水槽に海水を満たす。次いで車輪の前端の桁下に楔を打ち込み、前輪にかかる荷重をはずしてやる。その上で防波堤上を運搬されてくる方塊を受け取り、沈降積畳するというものである。方塊を2列分16個積畳すると機械を進行させ同様の手順で作業し、これを繰り返して施工していった。作業員は機関士1人、火夫3人、人夫2人、潜水夫2人を配置した。