21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.7] 福井・三国港エッセル堤 資料編

ジョージ・アーノルド・エッセル Georgr Arnold Escher(1843〜1939)
ヨハネス・デ・レーケ Johannis de Rijke(1842〜1913)

 日本政府に招かれて来日したオランダ人土木技術者は10人。その中でもエッセルとデ・レーケがわが国の近代化に果たした役割は大きいものがある。

 エッセル(1843〜1939)はデルフト工科大学の前身である王立アカデミーの土木科卒。5年間の滞在だったが、淀川修復工事を設計したあと、明治9年(1876)に淀川を離れ、鳥取県を手はじめに東北地方まで回り、日本の近代化のためのインフラ整備を指導していく。

 一方のデ・レーケ(1842〜1913)はオランダ国内の技師のもとで土木技術を習得するなど、工事監理を中心に学んでいる。エッセルとはきわめて対照的である。30年という長きにわたる滞在を可能にしたのは、技術だけでなく仕事を愛し、自己の利害を気にせず客観的な視野から日本へ助言してきた性格によるところが大きい。もちろん、エッセルからつねに最新の技術が提供されていたことを無視することはできない。

 エッセルは96歳で他界するまでに96冊の回想録を書き残している。その中には第2巻「蘭人工師エッセル日本回想録」があり、日本での仕事が記されている。またデ・レーケがエッセルと交換した100通もの手紙もあり、2人の人間性を浮かび上がらせる貴重な資料となっている。

エッセル(右)とデ・レーケ

オランダ式港湾技術

 流線型を描くエッセル堤は「洪水防止のために河道をできるだけ直線的な法線とした連続堤防を築き、河口には海の沖合深くまで導流堤を伸ばす」というオランダ式の設計理論を形のうえで象徴する。水そのものの力で土砂を海中深くまで流し込み、土砂の堆積を防ごうとする合理的な理論だ。しかも船運や河川環境を保全するために、できるだけ蛇行した低水路を河川の中につくる。

 ただし、本来意図された機能を十分に発揮できず、上流からの土砂の流出を十分にコントロールできていないという専門家の指摘もある。仮に十分に機能が発揮されていないとすれば、オランダと日本の地形条件などの違いが大きい。流量の大きな河口で発達したオランダの水理工学を、急に深くなり波当りの強い海岸が続き、より強い潮流もある日本において、そのまま適用することは難しいと思われる。工事費も当初の約30,054円が最終的には30万円ほどにふくらんだが、仮に誤算があったとすれば日本の自然条件の判断であろう。

着工前の想像図と思われる墨絵
(提供:ドラゴンリバー交流会)

河口開発方式

 日本の近代港湾の出発点は三国港と野蒜港といわれる。それだけに両港には共通点も多い。その一つが河口開発方式といわれる工法である。一般的に河口開発方式というのは、港を外港と内港に分けるという考え方に立っている。外港に大型船を停泊させ、内港には河口を上流までたどれる小型船を停泊させる。そして大小の船舶を艀でつないだり、陸揚げするというものである。

 河口開発方式には、オランダ人技師らが在任中からわが国内で疑問の声があった。三国港と野蒜港より少し後になるが、明治19年(1886)の横浜港の築港計画では、大防波堤をつくりその内側を浚渫して大型船が直接入港する方式が登場する。しかも陸地から大桟橋を伸ばして直接船に乗り降りするというものである。横浜港はイギリス人技師の手によるもので、築港形式はオランダ式からイギリス式へと転換していく。

坂井築港図
(出典:「日本築港史」)