21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.7] 福井・三国港エッセル堤
堤に冠された近代化の功労者
古くから北前船の重要な寄港地として賑わいを見せていた福井県・三国港(現福井港)。九頭竜川の河口に開けた港を包み込むように、緩やかなカーブを描く防波堤が沖合に延びる。
この防波堤の名称は「エッセル堤」。明治政府が初めて管轄した築港事業で、西洋式の技術を導入して築造された貴重な近代港湾遺産である。完成は明治13年(1880)。緩やかなカーブは、九頭竜川が運んできた土砂などを効果的に排出するため、当時最先端の水理工学にもとづいて設計・建設されたものだ。建設後100年以上たっても、港の機能維持に貢献する現役の施設であるばかりか、福井港の将来計画にも位置づけられている点は特筆に値する。防波堤の実現には、名称にもあるように明治の近代化を支えた「お雇い外国人」の活躍と貢献があった。
1世紀以上の時をへたいま、今日の土木分野の大きなテーマとなっている環境・景観デザインを連想させるほど周囲と調和している。
北前船の寄港地として栄えた三国港ではあるが、同時に九頭竜川の堆積土砂にたびたび悩まされた歴史をもつ。特に明治元年(1868)の九頭竜川支流・竹田川の大水害は、港の機能を著しく低下させた。
復興を計画した明治政府は、当時の日本の技術では対応が困難と判断、わが国の近代化のために招聘していた、いわゆる「お雇い外国人」を起用する。選ばれたのは明治6年(1873)に来日し、日本の河川改修の黎明とされる大阪・淀川修復工事をはじめ、全国のインフラ整備を指導したオランダの新鋭河川技師G・A・エッセルだった。ここにオランダ流の水理工学をベースに、近代的な築港技術による港湾整備計画がスタートすることになる。
全国を精力的に巡り指導したエッセルは、明治9年(1876)に計3回、のべ半年近くにわたり三国町に滞在し、三国港の現地調査と改築の設計をまとめあげた。だが完成を見ることもなく明治11年(1878)に帰国する。オランダ内務省土木局に復職後、最終的には技監にのぼりつめた。つねに工学者の目で明治の変革期を見ながら、日本政府に助言を続けたお雇い技術者だった。
エッセルの設計理論は、洪水から逃れるには、河道をできるだけ直線的な法線とする連続堤防を築き、河口には沖合の深いところまで導流堤を伸ばすというものである。ちょうどジェット噴流のように水の力で土砂を海の深い所まで押し出そうという発想だった。その理論を象徴するのが、名前となって残っているエッセル堤なのである。
エッセルの仕事は、やはりオランダから同時に来日していた技師デ・レーケへと引き継がれる。デ・レーケの工事監理で着工されたのは、エッセルが帰国した明治11年。工事ではダイナマイトによる捨石の採取をはじめとする新工法が導入された。また三国港と並び日本の近代港の始まりといわれる宮城県・野蒜港の築堤方法と共通する工法もある。粗朶沈床工法である。粗朶沈床上に、直径約1.5mの巨石を2〜3割の法面勾配で積んで防波堤を構築した。
防波堤の長さは約515m、幅は約9m。困難をともなった工事は、明治13年(1880)にほぼ完成し開港式を迎えた。エッセル堤を無事完成させた経験が、その後のデ・レーケの日本での数々の功績の基盤になっているといっても過言ではない。ほとんどを立案した木曽川の高水改修計画をはじめ、全国の多くの事業を指揮し、日本の近代化に貢献した。
オランダ内務省のエリート技官だったエッセルに対して、デ・レーケは現場たたき上げの技術者である。勤勉実直、現場主義の野人で服装などにも無頓着な人柄は、現場の日本人とも気軽につき合い愛されたという。オランダ人技術者の多くが帰国したあとも日本に残り、30年間にわたって日本の土木技術の近代化にその生涯を捧げた。防波堤の名称としては残らなかったが、エッセルと並ぶ功労者であり、「日本の土木技術の最大の恩人」といわれる評価を生むのである。
河口整備型の築港方式が採用された三国港について、期待されたほどの成果はあがらなかったという評価も一方ではある。上流から流入する土砂をうまくコントロールできないというものだ。オランダのように河川流量が多く水深が浅い沿海で発達した技術は、急深で波当りの強い日本の海岸には適合しなかったという指摘もある。
それでもわが国近代化の過程におけるエッセル堤の役割と貢献度は大きい。平成13年(2001)5月には国の有形文化財(建造物)として登録された。
写真撮影/西山芳一