21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.11] 熊本・三角西港 資料編

ローエンホルスト・ムルドル Rouwenhorst Mulder(1848〜1901)

 1872年にオランダのデルフト工科大を卒業したあと、ポートサイド(エジプト)の交易所の建設に参加。明治12年(1879)に内務省土木局の一等工師(水理工師)として来日した。明治23年(1890)までの約10年間にわたり、各地で築港の計画や建設指導にあたる。

 ムルドルの計画は、港湾施設や後背地の都市計画だけでなく、県内の交通体系までにらんだものだった。鉄道の延長など実現しなかったものもあるが、道路に代表される交通計画があり、その中心軸にあったのが三角ということができる。日本国内では港湾のほか、河川や砂防事業も指導し、わが国の近代化に貢献した。

 ムルドルは離日後も土木家として活動を続け、オランダ国内やロシアで活躍した。

(富重写真所所蔵)

工事費

 明治16年(1883)の熊本県臨時県議会で承認された工事費は302,068円96銭。うち10万円を国庫からの補助金とした。内訳は築港工事費146,318円39銭7厘、道路建設費153,353円26銭5厘、雑費(用地買収費含む)2,393円29銭8厘である。実際の築港工事費は108,071円5銭4厘だった。工事を請け負ったのは、大浦天主堂(長崎県)を手がけたことで知られる小山秀である。一方、道路工事は築港工事を上回る難工事で、工事費も当初より膨らんで192,367円90銭6厘が支出された。現在の国道57号線も基本的にはこの道路が改良されたものである。

アーバンデザイン

 ムルドルはたんに埠頭の計画だけでなく三角という町全体をデザインした。その足跡をいまも残すのが町にめぐらされた石積みの水路である。町内を貫流する水路と市街地をとりまく環濠の2種類があり、総延長は1,130mに達する。底面には石張りを施した。

 ムルドル自身の記録によると、水路を計画したのは「背後には三角岳が迫っており、そこから流れ出る小川の水を流すため」である。山のふもとに沿って排水路を設けて町内を一周させる(環濠)と同時に、2カ所で直接海に排水するための水路を横断させた。排水路には道路わきに沿ってつくられた側溝から家庭排水や雨水も流れ込むが、下水溝は整備されていない。

三角西港平面図
(出典:日本ナショナルトラスト「三角西港の石積みふ頭」)

ムルドルによる岸壁断面図
(出典:日本ナショナルトラスト「三角西港の石積みふ頭」)

浮桟橋平面図
(出典:日本ナショナルトラスト「三角西港の石積みふ頭」)