21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.11] 熊本・三角西港
港を起点に都市を創る
有明海に面した宇土半島(熊本県)の突端に、明治20年(1887)、時代の最先端をいく西洋式近代港湾が誕生する。オランダ人技師ムルドルの計画で完成した三角西港である。明治政府の殖産振興にもとづき、国費を投じて建設された地方港湾の一つ。また一方では、九州各地との物流の拠点、さらに海外との交易を通じて新しい知識を吸収し、中枢都市として機能させたいという県民の思いを込めた港でもあった。
地形に恵まれた天然の良港といわれる場所に、安山岩の切石を積み上げた埠頭を構築し、背後を一体的に都市計画された街並みが囲む。それは港湾機能の整備にとどまらず、港を一つの都市(まち)と見たてた発想にもとづく、まさに港湾都市づくりの実践の場だった。
県民の思いをかなえるように三角港はその後、機能が現在の港に移るまで国際貿易港として発展する。100年を経過したいまも当時の埠頭や水路がほぼ原形のままで残り、港湾遺産としての評価は高く、平成13年に土木学会から土木遺産に選定された。
熊本に港をつくるのは、幕末のころからの熊本県人の切実な願望だった。西南戦争の騒乱がおさまると、港湾建設の機運は急速に高まっていく。計画の中心的な推進者は、当時の県令(知事)である富岡敬明だった。予定地は、現在の熊本市街地にほど近い百貫石である。
ところが内務省から派遣されたムルドルの反対で頓挫してしまう。実際に現地を視察したうえで、「百貫石は河口にあり、土砂がたまって大型船が出入りする港としては不適当」と判断したのである。
代替地として新たにムルドルが勧めたのが、地形的にすぐれた天然の良港である三角だった。こうして港湾建設は三角に変更され一気に具体化していく。
ムルドルの計画は、海岸から岸壁を沖合に突き出し、十分な深さのところで海岸にほぼ沿って回し、岸壁と元の海岸線の間を埋立て、新都市をつくるというものである。熊本から35kmという立地的な障害は、鉄道と道路を建設して解決する方法をとった。
岸壁は水深3mの地点に築く。そして貨物の積み下ろしと乗客のために、浮き桟橋と階段を計画した。埠頭は長さ約730m。浮き桟橋(長さ5.4m、高さ1.8m)は2つあり、貨物の積み下ろしが楽にできるように、海面上の高さを和船と同じ高さにした。潮流で流されないための係留の方法や支柱の立て方など、具体的な点まで踏み込んでいる。埋立地は6万㎡で、宅地や倉庫用地とした。
岸壁部分平面図
(出典:日本ナショナルトラスト「三角西港の石積埠頭」)
写真撮影/西山芳一