21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.12] 長崎・小菅修船場跡

近代化の揺籃期を陰で支え続ける

 江戸時代に海外貿易の唯一の窓口であった長崎。市内から野母崎へ向かう街道のすぐ脇に小さな入り江があり、錆びついたレールが海中から斜面を陸上に延びる。その景観を見てなんらかの港湾施設跡であることは連想できても、ここがわが国の近代化に重要な役割を果たした施設であったことは、あまり知られていない。

 この施設の名称は「小菅修船場」(通称ソロバンドック)。スリップ・ドックと呼ばれる斜路形式の修船架であり、海中での工事、巨大な捲上設備など技術的に注目すべき点は多い。

 完成は明治元年(1868)。船舶の修理および木造汽船の建造によって、幕末から明治にかけて近代化を邁進したわが国の造船工業の歴史を象徴する存在である。

 わが国の近代化の道を象徴する例として汽船の普及と大型化がある。このためどうしても建造、修理のための造船所が必要になる。計画を推進したのは幕府ではなく、当時すでに11隻の大型船舶を擁し、修理施設を求めていた薩摩藩だった。

 中心で動いたのは、藩士の五代才助(のちの友厚)と家老の小松帯刀である。五代は慶応元年(1865)に欧州調査のため渡航する。その途中でフランス人のモンブランと出会い、船舶関連の貿易会社設立の仮契約を結んだ。ところが帰国したものの、藩の財政事情で計画は暗礁に乗り上げてしまう。

 計画は意外なかたちで再開された。イギリスの貿易商人グラバーの参加によってである。グラバーと小松(薩摩藩)の共同出資でいよいよ実現に動き出す。この過程でドックの形式は、最初の乾ドックから船を斜路で地上に引き揚げて修理するスリップ式へと変更された。建設費が安いこと、技術的に比較的簡単などの理由からである。捲上機などすべての設備は、グラバーがイギリスから調達した。五代と小松が計画した修船場だったが、いつの間にか主導権はグラバーの手に移っていく。

 紆余曲折をへた修船場は、いよいよ着工の時を迎える。建設地は小菅の地が選ばれた。溺れ谷であり地形・地質的にドックをつくるのに適しているという理由からである。推定では、土木工事が始まったのは、慶応3年(1867)の冬のことだった。

 施工は、まず入り江の海中に杭を打ち、そこに土嚢を積んで潮をせき止めることから始まる。そして海水を排水したのち、海に向かって斜めに下る斜面を整地してレールを敷設していった。レールの上には、船を載せて引き揚げる台車を設置する。この台車がちょうど算盤の形に似ているので、いつのまにかソロバンドックの名称が生まれた。

 船架は長さ37m、幅8mで最大1,000tの船の引き揚げが可能だった。陸上部には、引き揚げる機械設備のための小屋などが建設された。

 スリップ・ドックは、ドライドックより技術的にやさしいといわれる。しかし人力が中心の当時の技術力と海上作業が必要な施工条件から考えると、相当な難工事だった。工事中から国内外の見学者でにぎわったことから当時の関心の高さも推察される。

 難工事とはいえ、工程そのものはかなり順調に進んだようだ。工事管理をつとめたのは長崎製鐵所の建設にもかかわった幕府の地役人の岩瀬公圃(いわせこうぼ)である。彼が五代にあてた書簡には、慶応4年(1868)3月に、「都合70本ほどの杭を打ち込む」とある。その後、5月にはイギリスから輸送されてきた捲上機械、レールなど機械一式が陸揚げされ組立と据付が始まった。9月の改元で明治元年となった1868年10月には、汐留め土嚢を切り崩して汐入れと除去工事に入る。こうして12月の竣工を迎える。

 小菅修船場というと、どうしてもグラバーらの業績が評価されがちであるが、施工という側面から見ると、最大の功労者は岩瀬である。実直な性格は、工事の進捗の模様を節目ごとに五代に報告するいくつもの書簡から推察される。その業績はもっと高く評価されるべきであろう。

 ようやく完成した修船場も、わずか3カ月後には政府に所有が移った。その後、長崎製鐵所の一部(現在は三菱重工業株式会社の所有)となりしばらくはフル稼働したが、しだいに稼働率は落ち、大正10年(1921)以降は休止状態になる。大戦中に舟艇工場として復活、戦後も漁船の修理などを手がけたが、中小造船所の台頭で昭和28年(1953)に85年の歴史に幕を閉じることとなった。

写真撮影/西山芳一