21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.18] 新潟・佐渡相川港跡
江戸から昭和を生き抜いた、鉱石搬出の港
古代から中世にかけて、わが国の主要な交通網は、中国や朝鮮に近い日本海側にあった。なかでも陸奥や蝦夷と京都、大坂の中継港として、佐渡島は重要な位置を占める。さらに16世紀には鶴子(現在の新潟県佐和田)で銀山が発見され、その後江戸時代には相川が世界有数の金山として栄えた。
佐渡を代表する港のひとつである小木港は、慶長19年(1614)に、出雲崎への金銀の渡海場に指定され繁栄期を迎えた。さらに北前船西廻航路の寄港地となり、越後や津軽の米、越後や秋田の材木が運び込まれただけでなく、鉄や油、水銀、生糸、薪、炭、塩などが敦賀から回送された。
この小木港や両津港、赤泊港といった港が現在も佐渡島の玄関口として活躍しているのに対し、相川港は、かつては鉱石の積み出し港として繁栄したものの、現在では使われていない港だ。
明治期に入ると、政府直営となった佐渡の金山や銀山には、西洋式の採掘・選鉱・溶鉱の技術が導入され、明治後期から相川港はさらに発展した。その時期に整備されたと考えられている石積みの船溜りや波止の目地には、愛知を中心に発展した三和土(たたき)が使用されている。文字どおり消石灰、砂、粘土という3種の土を混ぜてつくる三和土は、硬化すると耐水性が生まれるため、明治中期から大正にかけて、まだまだ高価だったセメントに代わって港湾や河川の土木工事にも多く使われた。家屋においても土間などに使われ、現在も玄関の名称として残っている。
昭和に入ると、さらに石炭を降ろし、鉱石を積み出すための設備も充実していった。さまざまな荷役機械の音が勇ましく響きわたっていたことだろう。
しかし、戦後になって金の採掘・精錬が経済効率の悪さから衰退するとともに、相川港も老年期を迎えることになった。現在では鉄橋は朽ち、使われなくなった港には、人の影もない。江戸から昭和まで400年近くを生き抜いた港は、長い休息の時を迎えつつ21世紀に遺されようとしている。
台座石積みの目地材に「たたき」が使われている。
石炭荷揚げ用の高架軌道橋脚。昭和初期で比較的新しい。
鋼トラス橋のホッパー。ここから船に鉱石を積載した。