21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.20] 長崎・出島 資料編

出島の創生

 キリスト教の蔓延を防止するためポルトガル人を隔離しようと、寛永11年(1634)に江戸幕府は長崎港に人工島構築にふみきった。その任にあたったのは長崎の町年寄りである高木作右衛門、高木彦右衛門、後藤庄左衛門をはじめとした長崎の有力町人25人であった。高木らは自己資本で島を築くことを決断する。現代風にいえば民間活力を生かしたプロジェクトだ。さらに塀や門、橋などは幕府の普請、それ以外の家や蔵などは25人の負担ということで工事を進め、寛永13年(1636)に完成させた。

建設当時の石垣護岸の構造
(出典:「季刊大林『出島』」)

規模

 宝暦10年(1760)、長崎聖堂書記役であった田辺茂啓の手による「長崎実録大成」の記録によると、出島の面積は3,969坪(15,387㎡)。陸地に面した北側96間(190m)、南側118間(232m)、東西は35間(70m)で、島の周囲には高さ9尺(2.7m)の忍び返しがついた塀が張りめぐらされていた。北側の橋を渡り表門から入ると、内側には出島商館長の居宅であるカピタン部屋をはじめ、さまざまな施設が配置されていた。

建設方法

 広く知られる名前とは対照的に、出島がどのようにして建設されたかを示す記録はあまり残されていない。民間の研究グループによる復元を参考にすると、回りを石垣で固めて内部を埋め立てていくというのが基本的は方法である。ある試算によると埋立量は5万㎥に達した。当時の技術力からすると相当な大規模工事であったはずだし、これを1年半程度の工期で完成させたわけだからかなりの突貫工事であったと思われる。

 別府大学チームの調査によると、石垣基底部の根石には、奥行きが長く石尻が広い自然石が合端合わせで並べられ、その上に自然石が積み上げられていた。東側石垣は落とし込み、南側には寛永年間以降に民間に普及する間知積みという手法がとられていたという。

 大まかにいうとまず陸地側から埋立地に土砂運搬路を設けて外周に向かって埋立を広げていき、埋立の計画の形状に達した段階で外周石垣護岸を構築、護岸が完成した後橋梁などを施工していったと推察する。護岸を構築して埋め立てる現代の埋立とは異なりかなり稚拙で非効率な工法だ。しかしそれでも15,000㎡の人工島を1年半で完成させたとすれば驚異的であり、そのために相当な人力が投入されたものと推察される。