21世紀に伝えたい『港湾遺産』

[No.20] 長崎・出島

復元が進む、わが国人工島の原点

 長崎港に建設された「出島」は日本で最初の本格的な人工島である。現在、特徴ある扇型の島の形を見ることはできないが、新たな国土を創出する技術として注目されている人工島建設の原点がここにある。

 元亀元年(1570)、キリシタン大名として知られる大村純忠がポルトガル人に貿易許可を与えたときから、静かな半農半漁の村であった長崎の港は貿易港として発展を始めた。そして慶長17年(1612)、江戸幕府はキリスト教を禁教としつつもポルトガル貿易を重視していたため、ポルトガル人を隔離して集中管理しようと、寛永11年(1634)から13年(1636)にかけて「築島」と呼ばれる人工島を建設した。これが以後200年以上にわたって「出島」と呼ばれ、オランダ屋敷などで知られるようになる。

 出島の建設方法について資料はほとんど残されていないが、4,000坪近い人工島を、2年弱で建設したことや、建設機械などがなく大部分の作業を手仕事で行ったことと併せて考えると、石を基礎として沈めた上に土砂を盛り、徐々に人工島面積を拡げるというシンプルな工法が採用されたと推論される。

 近隣で採取された輝石安山岩や砂岩が使用されている石垣も、石をほとんど加工せずに積み上げた素朴なつくりであったため、隙間が多く潮の干満や波、台風などによってどうしても島の表土は浸食された。そのため200年にわたって、たびたび補修が行われたと考えられている。扇型という特殊な形態も、波浪の影響を最小限にくいとめるためのものだとする説もある。

 明治期に出島周辺が埋立てられ、現在ではかつての島としての姿を残していないが、長崎市は2010年を目標に出島復元整備計画を推進している。平成8年(1996)には埋立てられていた外周石垣部分の発掘調査も実施され、出島はふたたび扇型の島としての姿を取り戻そうとしている。

 日本最古の本格的な人工島という貴重な港湾遺産の復元は、文化史だけでなくわが国の港湾土木史における意義も大きい。

「寛文長崎図屏風」1673年、六曲一双の左半双の一部。
(長崎市立博物館所蔵)

発掘調査で南側石垣の遺構がみつかった。自然石だ。

現在の出島地区。点線で囲んだ部分がかつての出島。