21世紀に伝えたい『港湾遺産』
[No.22] 静岡・神子元島灯台
現存する日本最古の洋式石造灯台
慶応2年(1866)、日本はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と条約を取り交わした。この条約にもとづいて、日本にも洋式灯台が建設されることになった。伊豆半島沖合の神子元(みこもと)島灯台もその一つだ。
建設は、スコットランド生まれのイギリス人技師R・H・ブラントンが担当した。明治維新をへた明治2年(1869)に着工し、翌年に完成する。その年の11月11日の点灯式には、政府から三条実美、大久保利通、大隈重信が、さらに、イギリス公使ハリー・パークス、イギリス領事アーネスト・サトウらが出席した。
総工費46,570円70銭、国の威信をかけて建設された灯台の築造には、下田の恵比寿島から切りだした伊豆石を使用した。上層部は、継ぎ目をはめ合わすダブテール(鳩尾)式で、中層/下層部は、ていねいに積み上げられた石の継ぎ目がセメント状のもので埋められている。当時の日本にはまだセメントがなかったため、ブラントンは火山灰と石灰岩を島で焼成し、速成のセメントをつくったのだ。
初代看守長(灯台長)には、イギリス人マケントンが就任。3名の日本人が助手として赴任し、業務の習得につとめた。各地の灯台と同様に、神子元島灯台での勤務は過酷なものだった。職員は昭和24年(1949)に下田に宿舎が建てられるまで、家族とともにこの孤島で生活しながらの勤務を余儀なくされる。島からの外出は1カ月に一度、72時間以内だけだったという。その後交代勤務となってからも、一週間の連続勤務は続けられた。職員の常駐は昭和51年(1976)まで続いたが、機器が自動化されて下田海上保安部で無線監視できるようになり、現在は無人の灯台となっている。
関東大震災の被害を受けることもなく、戦時中の空襲による照明部分の破損も、戦後すぐに修復されて灯台の光は維持された。現在は、外装をステンレスワイヤーで網目状に縛り、その上から特殊樹脂で塗装するなどの補強がされているが、小さな島の灯台は130年をへた現在も、変わることなく航路の安全を守り続けている。
灯台に隣接して「吏員退息所」が設けられていた。
灯火の光は16秒に2回閃光し沖合36kmまで達する。
堅牢な石造りの内部。速成のセメントで積み上げられた。