『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

穏やかな気候に恵まれ、桜島の雄姿を眼前に望む鹿児島港。大陸にも近いこの港では、鎖国下でも積極的に海外の情報を取り入れ、独自に近代化への道を歩んできた。そこには薩摩藩藩主、島津家を始めとする、先進的な意識を持った人々が大きな役割を果たしている。日本の近代化のモデルともいえる鹿児島港の足跡をたどる。

桜島を間近に望む鹿児島港・本港地区 鹿児島港の中心であり、屋久島や沖縄などへの玄関口でもある

鹿児島市の中心街を通り、本港地区に向かう「みなと大通り公園」石造りのモニュメントや噴水が親しまれている

「フランシスコ・ザビエル滞鹿記念碑」日本にキリスト教をもたらしたザビエルは、長崎に行く前に鹿児島に滞在し、当時のヨーロッパの情報を伝えていた

鹿児島港 本港地区

いち早く「開国」し、工業化をはかった薩摩藩

幕末になって鎖国が解かれ、欧米の産業技術を取り入れることで近代化が始まった日本。その動きを先取りしていたのが鎖国下でも交易を通じて世界の文化に触れ、製鉄などの洋式産業を興していた薩摩藩である。

薩摩藩の玄関口である鹿児島港では、江戸時代から海外との交易が盛んに行われていた。当時は鎖国政策によって、長崎・出島以外の場所では外国との貿易ができないことになっていたが、江戸幕府は長崎貿易の補助的な貿易口として琉球を通じた中国などとの輸出入を認めていたのである。これは「琉球口貿易」と呼ばれていた。さらに、関ヶ原の戦いや鹿児島城の築城などによる財政難を解消するため、幕府が認めていなかった朝鮮やアジアとの貿易も行われていた。

こうして外国の文化や物資が入ってくる中、積極的に開花政策をとったのが薩摩藩八代藩主、島津重豪(しまづしげひで)である。勉強熱心で好奇心旺盛だった重豪は若い頃から中国やオランダの文物に大きな興味を抱き、「蘭癖(らんぺき)」(オランダかぶれ)と噂されるほどだった。長崎の歴代のオランダ商館長とも親しく、オランダ語や中国語を学び、中国語の辞書「南山俗語考」を編纂させている。現在も、重豪がローマ字の練習をしたものなどが残っている。また、江戸の薩摩屋敷に蔵を建てて収集したオランダ・中国の宝物や器物を飾り、来客にオランダ語や中国語をまじえて説明してみせたりもしていた。

文化や教育の振興にも熱心だった重豪は、藩として統一された教育が受けられる施設が必要だと考える。依然として財政難に苦しんでいた薩摩藩では反対するものもいたが、重豪は積極的に教育環境の整備に取り組み藩校造士館や演武館、医学院、明時館(天文館)を創立、それぞれ朱子学、武道、医学、天文学の教育・研究にあたらせた。とくに造士館は士族の子弟だけでなく、町人の子も聴講できる、開かれた教育施設だった。

こういった重豪の先見性は、曾孫である島津斉彬(しまづなりあきら)に大きな影響を与えている。重豪は聡明な斉彬に期待をかけ、珍しい海外の文物を与えて教育した。重豪の死後、斉彬も進歩的な政治家や蘭学者と交流し、積極的に海外情報の入手に努めている。後に彼はこのころ得た知識を活かして近代化事業を興し、殖産興業・富国強兵という明治維新の動きを先取りすることになった。