『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

さまざまな近代産業の育成に貢献した島津斉彬

 斉彬が藩主になる10年前、1840(天保11)年に隣国の清(中国)でアヘン戦争が起こる。斉彬はいち早く、一島国であるイギリス軍が大国・清に圧勝したという情報をつかんでいた。またペリー来航よりも前、1844(弘化1)年から1846(弘化3)年にかけて、薩摩藩の支配下にあった琉球にフランスやイギリスの軍艦がたびたび上陸し、交易を迫る。斉彬は列強の日本進出が迫っていることを認識し、1851(嘉永4)年、藩主に就任するとさっそく薩摩藩の近代化に取り組んだ。

 欧米諸国の海外進出が近代的な大型商船や軍艦によって支えられていることを知っていた斉彬はまず、造船事業に着手する。1854(安政1)年にヨーロッパの技術をとりいれた帆船「いろは丸」を、次に洋式の琉球大砲船「昇平丸」を建造した。昇平丸は日本で初めての洋式軍艦となった。さらに日本で初めての蒸気船「雲行丸(うんこうまる)」もつくる。これらの船はオランダの書物を翻訳したり、アメリカから戻ったジョン万次郎の話を参考にして、手探りで建造したものだった。斉彬は、帰国するときに琉球に上陸した万次郎を鹿児島に滞在させ、藩士らに造船や航海術の指導にあたらせたのである。

 あわせて斉彬は洋式近代産業の育成・振興に力を注ぐ。まず1851(嘉永4)年、鹿児島城内に製錬所を建設する。ここではいろいろな製造実験が行われ、成功したものは鹿児島市郊外の磯地区に工場を建てて、実用化を図った。工場の数は次第に増え、やがて磯には1200人もの職人が働く一大洋式工業団地ができる。斉彬は製錬所を「開物館(かいぶつかん)」、磯の工場群を「集成館」と名づけた。

 集成館では銑鉄を生産するための高炉(溶鉱炉)が建設される。これは1854(安政1)年に完成し、日本初の本格的な高炉となった。次に斉彬は、大砲鋳造用の上質な鋼鉄を一度に大量生産できる大型反射炉の建設に着手する。最初はオランダの手引き書の翻訳をもとに鹿児島城内に作った反射炉のひな形で実験したところ、うまくいかなかった。すると斉彬は「西洋人も人なり、薩摩人も人なり、退屈せず(へこたれず)ますます研究に励むべし」と激励したという。ここで製造に成功した新式の大砲は鹿児島城下の台場に設置され、斉彬の死後おこった薩英戦争で活躍する。

 このほか集成館では水力を利用して大砲の砲身をくりぬく鑽開台(さんかいだい)の建設や、ライフル銃、地雷などの製造が行われる。これら軍事関連産業だけでなく、薩摩切子などの各種ガラスの製造、和洋折衷の磁器や陶器、工具、農具などさまざまな産業の振興がはかられた。

 この多岐にわたる斉彬の事業は「集成館事業」と呼ばれている。斉彬は軍備を整え、産業を興すことで、薩摩藩を、ひいては日本全体を発展させようとしていた。新しい時代の到来を見据えていた斉彬は、「これからは幕府や藩という単位ではなく、日本が一体となって強い、豊かな国に生まれ変わらなくてはならない」と考えていたのだ。

1857(安政4)年、島津斉彬が撮影させた自らの肖像写真。日本人が撮影したものとしては現存する唯一の銀板写真。(提供:尚古集成館)

集成館で鋳造され、薩英戦争で使用された大砲。島津家の家紋である十文字が入っているので、十文字砲と呼ばれた(提供:尚古集成館)

尚古集成館は、斉彬の集成館の跡地にある。建物は薩英戦争後に建てられた石造りの蒸気機械工場を利用したもの

明治初期の磯付近の光景。薩英戦争後に建てられた紡績工場や異人館が見える(提供:尚古集成館)

磯庭園にある反射炉の土台。大きな横穴は、通風口と燃料灰のかきだし口を兼ねたものだといわれている

昇平丸の模型。掲げられた日の丸は、斉彬が幕府に日本の総船印として使うことを提案して認められたもの。(提供:尚古集成館)

COLUMN

薩摩切子に見る薩摩藩の技術力

 鹿児島の名産として人気の薩摩切子。赤や青の美しいカットグラスの技法は、集成館事業によって生まれたものだ。

 薩摩藩で初めてガラス器が作られたのは、十代藩主島津斉興の時代。1846(弘化3)年に製薬館と医薬館を創設した斉興は、酸を入れても割れない薬品用の容器や、試験用のガラス器を作る必要に迫られる。そこで江戸から技術者を招き、ガラス製造竃を設けてガラス器の製造を始めた。

 その後藩主となった斉彬は紅ガラスの製法を研究させ、銅粉で暗紅色の、金粉で透明な紅色のガラスを製造することに成功。当時鹿児島を訪れた外国人からも一級の美術工芸品として高く評価された。

 斉彬は鎖国下にあっても「日本人も広く海外に出かけて交易するべきだ」と考えており、薩摩切子も輸出商品として開発されたといわれている。ガラス器のほかにも、薩摩の伝統工芸である薩摩焼を外国人好みの柄に変更させるなどの工夫をさせた。酒や醤油を輸出するための陶磁器の改良も行っている。英語で醤油が「SOY」と呼ばれるのは、薩摩方言で醤油を表す「ソイ」がそのまま取り入れられたものだ。

 しかし斉彬の死後、薩英戦争で集成館の硝子工場が焼失してしまったこともあり、明治初めに薩摩切子の技法は途絶えてしまった。現在製作されているのは、昭和50年代末から復元されたもの。製造工場も公開されて、観光客の人気を博している。

ヨーロッパのカットグラスの影響を受けて作られた薩摩切子

薩摩切子の製造風景