『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
水に、木々に、石畳に神々が宿る霊山
那智勝浦の町の背後には、日本文化の源流ともいわれる熊野の山並みが広がっている。雄大な黒潮が打ち寄せる海とは対照的に、神秘的な陰影を見せるこの一帯は、原始より神々が棲み、魂が蘇生する地として信仰を集めてきた。吉野熊野国立公園にも指定されている聖なる熊野の山々を辿ってみた。
「蟻の熊野詣」といわれるほど長い列をなして、貴族から庶民、修験者まで多くの人々がここ那智山を訪れた。心身を清め山中に入り、厳しい修行に励めば法力が得られると伝えられていたのだ。遥かなる浄土を目指し、彼らが踏みしめた山道「熊野古道」が険しい山河を縫うように走っている。温暖多雨の気候に育まれてきた原生林には、今も心身を浄化するが如く静謐な空気が流れている。熊野古道の面影を最も美しく残しているのが「大門坂」だ。なだらかに続く石畳にはしっとりと苔がむし、樹齢800年の夫婦杉が門のようにそびえている。
この大門坂から深い森を1kmほど登っていくと日本一と謳われる「那智の滝」に行き着く。高さ133m、滝壺の深さ10m、この大滝そのものが熊野那智大社の別宮である飛瀧神社の御神体として崇められている。しぶきに少しでも触れることができれば長寿を授かることができると伝えられている。この大滝をはじめ周辺に散在する大小48もの滝が大地を潤し、様々な動植物の命の源泉となっている。
那智の滝の前面に鎮座しているのは西国三十三カ所観音巡りの第一番札所でもある「那智山青岸渡寺」だ。4世紀頃、遠くインドから海を渡り那智の浜辺に流れ着いた裸行上人が、大滝の滝壺から観音像を見つけだし、そこに草庵を結んで安置したのが起源とされる。現在の本堂は豊臣秀吉が1590(天正18)年に再建したもので桃山時代の建築様式を色濃く残し、国の重要文化財に指定されている。本堂の後方には壮麗な三重の塔がそびえ立ち、滝を背景とした風景が神々しいほどに美しい。
那智勝浦はいま次世代の港町の姿を模索している。壮大な黒潮の海と悠久の森、活気に満ちた漁港の風情と豊かな海の幸を求め、勝浦には年間200万人もの観光客が訪れる。そうした旅人がこの地でまず目にするのは勝浦の港と穏やかな海であろう。また基幹産業である漁業を支えているのも港である。勝浦港は観光、産業の拠点としてその協調を図りながら整備が進められてきた。未来に向けどのような港町が形成されていくのか、新しい港の姿に期待が膨らんでいく。
太平洋からも眺めることができる那智の滝は飛瀧神社の御神体。133mの高さから毎秒1tもの水が落ちてくる(写真:那智勝浦町)
親水施設も整備されている那智海水浴場。ブルービーチ那智の名で親しまれている
熊野古道の面影を最も美しく残している大門坂。山道を約1km、20分ほど辿ると那智の滝に行き着く
平安末期に建立された那智山青岸渡寺の三重の塔は豪族たちの対立が原因で16世紀に焼失したが、昭和44年に400年の時を経て再建された(写真:那智勝浦町)
西国三十三カ所観音巡礼の第一番札所の那智山青岸渡寺には豊臣秀吉の願文を刻んだ大鰐口が納められている(写真:那智勝浦町)
写真/西山芳一
COLUMN
鯨に挑むまち太地町
那智勝浦の隣町、太地町は日本における捕鯨発祥の地として全国にその名を知られている。商業捕鯨が禁止されてから10年以上の月日が流れたが、太地は捕鯨文化とその歴史を伝える町だ。
日本人が何千年も前から鯨類をあますことなく利用していたことは考古学的事実として定説とされ、万葉集の中には「久知良」の記述も残されている。
しかし、捕鯨を初めて産業活動として成功させたのは、慶長年間太地において「刺手組」を組織し、突き捕り式捕鯨を展開した和田頼元であろう。古式捕鯨の発祥とされるこの捕鯨法は、接近した鯨を銛で突いて仕留めるというシンプルな捕獲法であったが、武士の出身であった頼元は兵法の観点から「山見」と呼ばれる探鯨台を高い崖の上に設置し、旗や狼煙による通信網を整備するなど戦いの技術を駆使して鯨を捕獲した。さらに頼元の孫にあたる和田頼治がこの捕獲法を発展させ、網に鯨を追い込み弱った鯨を銛で捕獲する網捕り式を編み出した。その後、西洋式の捕鯨が導入され、港や船も目覚ましい進歩を遂げたが、400年にわたって太地は鯨とともにその歴史を歩んできたのだ。
今でも残る狼煙場跡に立ち、雄大な黒潮の大海を一望すると、遠目でも見分けられるように美しく彩色された船々が波間に見えるようだ。太地町には鯨に挑み続けた漁師たちの誇りが刻み込まれている。
(写真:太地町立くじらの博物館)
「古式捕鯨絵巻」より
1987年まで活躍した捕鯨船「第11京丸」は現在展示保存されている