『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
「マグロの町」として知られる三浦半島の南端三崎港は、今や日本を代表する味となったマグロの遠洋漁業基地である。
漁師たちはここから出航し、長いときは1年かけて船にマグロを満載して帰ってくる。
マグロ漁師の心意気を支える三崎港の町並みを歩いてみた。
町から港まではほんの少しの距離だ。町の人は潮の満ち引き、漁船の出入りを肌で知ることができる
三崎港
上質のマグロがあがる日本三大マグロ港、三崎港
神奈川県、三浦半島の先端に位置する三崎港。岩場が勇壮な景観を見せる城ケ島を天然の防波堤とし、東京をはじめとする大都市にも近い昔からの良港だ。
三崎の特色はなんといってもマグロである。全国でも有数の遠洋漁業の基地であり、日本を代表するマグロ港のひとつにも数えられるこの港には年間を通じてマグロ船が入港し、丸々としたマグロが水揚げされる。陸に揚げられたマグロは港にある魚市場で入札にかけられ、三崎や都内の飲食店へ、あるいは食品加工工場へと運ばれていく。
魚市場は平成6年に新設されたもの。古い魚市場は現在解体工事が進められ、その廃材は、三崎港の西に新しく整備される岸壁の埋立に再利用されている。
この三崎に「マグロ漁の名人」「日本一の漁労長」といわれる漁師がいると聞き、会いにいった。大正11年生まれ、今年で78歳になる山田重太郎さんだ。山田さんの名前は、マグロ漁関係者なら知らないものはない。とにかくマグロを獲るのが神業のようにうまい。同じ漁場で漁をしていても山田さんの船だけ、他の船の倍以上ものマグロを水揚げする。「4日で300t獲ったときは船上で冷凍するのが間に合わなくて、海に捨てなければならないこともあったね」と、もったいない話をしてくれた。平成5年には俳優の松方弘樹さんとボストンでの「ツナ・トーナメント」に参加し、みごと300kg以上あるマグロを釣り上げている。平成元年に脳梗塞で倒れ、以来長期の漁はやめているということだったが、そんなことは微塵も感じさせない。張りのある声でマグロ漁について次々と語ってくれた。
こうして外国の文化や物資が入ってくる中、積極的に開花政策をとったのが薩摩藩八代藩主、島津重豪(しまづしげひで)である。勉強熱心で好奇心旺盛だった重豪は若い頃から中国やオランダの文物に大きな興味を抱き、「蘭癖(らんぺき)」(オランダかぶれ)と噂されるほどだった。長崎の歴代のオランダ商館長とも親しく、オランダ語や中国語を学び、中国語の辞書「南山俗語考」を編纂させている。現在も、重豪がローマ字の練習をしたものなどが残っている。また、江戸の薩摩屋敷に蔵を建てて収集したオランダ・中国の宝物や器物を飾り、来客にオランダ語や中国語をまじえて説明してみせたりもしていた。
文化や教育の振興にも熱心だった重豪は、藩として統一された教育が受けられる施設が必要だと考える。依然として財政難に苦しんでいた薩摩藩では反対するものもいたが、重豪は積極的に教育環境の整備に取り組み藩校造士館や演武館、医学院、明時館(天文館)を創立、それぞれ朱子学、武道、医学、天文学の教育・研究にあたらせた。とくに造士館は士族の子弟だけでなく、町人の子も聴講できる、開かれた教育施設だった。
こういった重豪の先見性は、曾孫である島津斉彬(しまづなりあきら)に大きな影響を与えている。重豪は聡明な斉彬に期待をかけ、珍しい海外の文物を与えて教育した。重豪の死後、斉彬も進歩的な政治家や蘭学者と交流し、積極的に海外情報の入手に努めている。後に彼はこのころ得た知識を活かして近代化事業を興し、殖産興業・富国強兵という明治維新の動きを先取りすることになった。
水揚げされたマグロは魚市場で入札にかけられる。いいマグロかどうかは、尾を切り取った小さな断面で見分けなければならない。仲買人のするどい目が光る
出航を待つ三崎港の漁船
三崎港では現在、漁船の大型化に対応した新しい岸壁を整備するための埋立が進められている。完成すれば、1万トン級の船の接岸が可能となる
マグロ漁の名人、山田重太郎さん。著書「私と海とまぐろの記録」では、どうやって大漁を続けたかを詳細に解説している。こういった「企業秘密」を公開しているのも、マグロ漁の伝統を絶やしたくないという気持ちからだ