『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
須崎の町をのみ込む「津波」との闘い
昭和21年12月21日午前4時14分、高知の大地が大きく揺れた。南海大地震の初震である。その約30分後、須崎の町をこの地震に起因する3波の津波が襲う。波高6、5mに達した津波の前線は桜川の上流に及び、平野部の多ノ郷一帯を侵し、甚大な被害をもたらした。さらに、引き潮は、無数の木材を矢のように押し流し、奔流となって町をひとのみにした。死者51名、行方不明者3名、負傷者141名、家屋の倒壊、流失は160戸余りに達する大災害であった。朝まだ早い時刻の容赦ない津波の恐怖は想像を絶するものであったことだろう。この津波によって須崎の港は700隻近い船舶を失うこととなった。
この南海大地震の津波以前にも、死者400余名を出した1707(宝永4)年の大津波や、死者は無かったものの、4000戸もの家屋が浸水した昭和35年のチリ地震の津波が大きな災害としてあげられる。
現在の試算によると南海大地震津波と同規模の津波が来襲した場合、その被害推計は浸水面積が344ha、被害額760億円、被災人口は市民の半数に近い14000人にもなるという。さらに、本四架橋ルートや四国横断自動車道の整備が進み、須崎は関西及び瀬戸内経済圏との連携がとられており、津波の被害は須崎市内、高知県内に止まらず、広い範囲にわたって甚大な影響を与えることが予想される。
こうした災害から港と町を護るため、現在港口に東西併せて1500mに及ぶ津波防波堤の整備事業が展開されている。典型的な入り江である須崎港の地理的特性は、ひとたび津波となった巨大な波浪にはマイナスに作用してしまう。そうした弱点を克服する安全な水際を整備し、市民が安心して生活できる町づくりが港から始められている。
伝承と祭に受け継がれた海とともに生きる人々のこころ
太平洋に面し、黒潮に鍛えられてきた須崎には、海とそこに生きる人々のこころを伝える物語や祭が各地に残されている。
多ノ郷の賀茂神社は「賀茂さま」と呼ばれ、今でも市民から親しまれている。古代のこの一帯は「大坊千軒」という漁民の集落であった。ある日この村で「人魚」を釣り上げ食した罪で多くの漁師が死罪となる事件が起きる。しかし刑を免れた一人の女の子が年をとることもなく800年も尼僧として生き続けた。放浪の末、望郷の念にかられた尼僧が故郷に寄進したのが賀茂神社の「八百比丘尼塔」であると伝えられている。鎌倉時代後期に建立された4、3mの多重塔は高知県内では他に見られない構造だという。
四国第三十六番霊場の独鈷山「青龍寺」のご本尊は、「波切不動明王」だ。開創した弘法大師が海で嵐に遭遇し、今にも船が沈没しそうになった際、一心に祈念するとこの不動明王が海上に現れ、荒海を鎮めたという。以来世間の荒波を切り鎮める「龍のご不動さま」として今でも万人の尊信を受けている。
野見の海岸では毎年旧暦正月14日の深夜、海神に大漁と集落の繁栄を祈念する「野見の潮ばかり」という行事が行われる。5色の短冊を飾った高さ15mを超す淡竹が明るいうちに集落中央に立てられる。夜になると若者たちが悪霊を鎮める「地つき」をしながら竹を海岸まで運び、干潮時を見計らって沖に立てる。後日この竹が沖方向に倒れると大漁、岸方向なら豊作の年になると伝えられている。県の無形文化財に指定されているこの神事も、海辺の町ならではの行事である。伝承や祭事のなかに、海と生き続ける須崎の人々の精神が連綿と受け継がれている。
手前は木材の加工工場などが集中する港町地区、対岸はセメント基地の大峰地区(写真:須崎市)
加工された木材は主に梱包材料として全国に供給されていく
港近くに「津波之碑」が建てられ、津波の脅威を伝えている
木材埠頭とセメント工場の埠頭が向かい合う須崎港
浜町地区の漁港は決して大きな港ではないが、のどかなたたずまいに心が安らぐ
「賀茂さま」の名で親しまれている賀茂神社には「人魚伝説」が残されている
港口部でも波が穏やかなため、タイなどの高級魚の養殖が行われている
昼下がりの漁港にはゆったりとした時間が流れていた