『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

 八戸港は平成6年、東北初の外貿コンテナ航路となる東南アジア定期航路が開設され、現在では韓国航路、北米西岸航路と内貿航路を含めコンテナ4航路を有する北東北の物流拠点として発展してきた。
 昨年4月には多目的国際物流ターミナルも完成し、新たな節目を迎えている。未来を見据え、新しい港湾整備にも果敢に挑戦を続け、港のたくましさを感じさせる八戸港を訪ねた。

(写真:青森県)

八戸港

漁港から東北有数の工業港へ八戸港発展の歴史

 「唄に夜明けたかもめの港 船は出て行く南へ北へ 鮫の岬は汐けむり...」昭和初期に当時の市長をはじめとする地元の人達によって作曲された「八戸小唄」の一節だ。「鮫の岬」とは、この地の港が八戸藩が創立された寛文年間から明治時代までの250年間もの長きにわたって「鮫浦港」と呼ばれていたことに由来している。唄はテンポがよく陽気な曲調で今でも市民に親しまれているが、この明るさ、元気な気質が八戸港の発展にも大きく寄与しているように思える。

 鮫浦港は1664(寛文4)年、南部直房が八戸に入り八戸藩二万石を開いて以来、城下町を控えた港として発展する。領内の物資が集散する物流拠点として、また暖流と寒流が交差する良好な漁場を臨む漁業基地としてにぎわいを見せていた。河村瑞賢により東廻り航路が開かれると、「鮫浦港」は地域一帯だけではなく全国的にも重要な港としてその名が知れ渡るようになる。江戸、大坂に向け地域の産物である米、木材、海産物などが積出され、八戸藩には木綿、陶器、日用品がもたらされた。

 しかし、港の繁栄と比較して内陸部は決して恵まれた環境とはいえなかった。藩の南部地域には夏になると「ヤマセ」という冷たい北東の風が吹き、これがしばしば凶作を招いた。数万人規模の餓死者を記録したこともあるが、人々はこの貧しさにも負けることなく立ち向かっていく。出稼ぎを余儀なくされた人々は海に向かい、優秀な潜水夫として全国に名を馳せるようになる。戦前から戦後にかけ国内のみならず東南アジアにまで渡り、沈船の引き上げから海難救助、潜水漁業と世界的規模で活躍した。

 明治から大正にかけて、鮫浦港は商港、漁港としての機能をさらに高めていく。物流拠点としての重要度が高まったことから、内務省は1881(明治14)年、オランダ人技術者ムルデルを派遣し実測調査を実施、その翌年築港計画を成す。さらに1919(大正8)年、近代港湾として歴史の幕開けともいえる鮫漁港修築事業の着工と整備が順調に進められた。

 大正末期から昭和にかけて八戸は工業都市として大きく躍進する。港も「八戸港」と改称し、昭和7年、商港第一期整備工事に着手、北防波堤、3千t岸壁、物揚場などが昭和14年までに完成する。積極的な港湾整備と、後背地に産出する石灰岩、砂鉄、硫化鉄などの豊富な地下資源が、八戸の近代化に大きく貢献し、港は工業港としてその機能を高めていく。


豊富な漁業資源に恵まれた三陸沿岸に近い八戸は昔から日本有数の漁港だ

八戸を代表する日本画家七尾英鳳が描いた昭和初期の鮫浦港付近

空から見た第一工業港。緑地やショッピングセンターの整備も進められている(写真:青森県)

平成6年8月、八太郎1号ふ頭に入港した東南アジア航路の第一船(写真:青森県)