『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて
大きくうねりながら打ち寄せる荒波が、防波堤に激突し、巨大な飛沫となって砕け散る。
新潟港西港区の港口部から外海を臨むと、日本海ならではの雄々しい光景に出会うことができる。
振り返り港内に目を向けると、一転して波穏やかで近代的な港湾都市の風景が広がっていた。
海底トンネルの開通、新しいランドマークとなる「朱鷺メッセ」のオープン、大きく飛躍しようとしている新潟港の姿を伝える。
写真:新潟県港湾空港局港湾課
新潟港
信濃川の河口に開けた日本海の要港
新潟港は信濃川の河口部に整備された日本海沿岸屈指の要港だ。平安の時代から「蒲原の津」として知られ、物資の集散拠点であった。1616(元和2)年、新潟奉行に任命された長岡城主堀直寄が、港として格好のこの地に着目し、船着場を整備したのが「みなと新潟」の始まりとされている。その後、寛文年間に河村瑞賢が開いた西廻り航路の寄港地となってから、大きく発展する。1697(元禄10)年の入港船数3,500隻、総取引高も百万両を超えたという記録が残っている。
1858(安政5)年に締結された日米修好通商条約によって長崎、神戸、横浜、函館に次いで開港場に指定された新潟港は1868(明治元)年に海外に開かれた日本の窓として開港した。明治から大正期にかけて近代港としての機能を整備するため、河口改修事業やふ頭、防波堤の建設が積極的に推進された。信濃川の氾濫による水害から越後平野を守るための大河津分水事業も明治42年本格的に着工された。その結果、大陸貿易の先駆けとなった日本と旧満州を結ぶ日満航路を中心に取扱い貨物量も順調に推移し、新潟港は日本海の物流拠点として発展した。ところが、昭和に入ると第二次世界大戦によって荒廃し、大戦末期には廃港寸前にまで追い込まれた。さらにその復興が完成に近づいた折に新潟大地震(昭和39年)によって再び壊滅的な打撃を被ってしまう。昭和期の新潟港の歴史は決して平坦なものではなかったのだ。震災後、以前にも増して築港の志をさらに強固なものとした新潟港は、懸命に復旧工事を完遂し、対岸貿易の展開、大規模な精油施設の進出により再生する。工業港と臨海工業地帯の一体的な開発を目的として震災の直前(昭和38年)から整備が始まった新潟東港区も、昭和44年に国際貿易港として開港した。現在、LNGなどを年間800万tも受け入れる日本海側最大のエネルギー基地となっている。さらにコンテナターミナルや大型荷役施設の建設が進み、新たな環日本海圏における国際物流拠点としての整備が進行中だ。この間、昭和42年に新潟港は日本海側では最初の特定重要港湾に指定されている。
その新潟港が昨年から今年にかけて大きな節目を迎えている。「信濃川河口の海底を走る『新潟みなとトンネル』の開通、万代島再開発事業の竣工により新潟港が大きく変わろうとしています」と語るのは北陸地方整備局新潟港湾空港工事事務所の蜂須賀和吉企画調整課長だ。大正時代から運動が展開され、以来100年近い時を経て実現した連絡路建設。市民の悲願ともいえるプロジェクト「新潟みなとトンネル」について聞いた。
国際的な物流拠点として整備が進む東港区(写真:新潟県港湾空港局港湾課)
東港区の木材ふ頭
日本海へそそぐ信濃川の河口に開けた西港区(写真:北陸地方整備局新潟港湾空港工事事務所)
日本海の荒波から港を護る西港港口部の護岸
西港区の万代島は新たな港のシンボルとして生まれ変わった
3基のガントリークレーンが整備された東港区の国際貿易ターミナル
船舶の安全な航行をバックアップする最新鋭の大型浚渫兼油回収船「白山」