『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて

雄物川の河口港として、古くから物資の集散拠点として栄えてきた秋田港。
日本海に臨む秋田県の海岸線のほぼ中央に位置する港湾だ。
南北に連なる長大な秋田県の海岸は、北の八森、能代から男鹿半島を経て、西目、仁賀保まで、雄大な岩礁帯や美しい砂浜など、様々な海の表情を見せてくれる沿岸としても知られている。
この海岸線に共通していえるのは、日本海から吹き込む激しい海風だ。
この「風」を活かし、海岸、港の新たな可能性を探る活動が始まっている。
北東北を代表する港、秋田港と、風力発電という新しいエネルギーの創造に取組む秋田の港と海岸を訪ねた。

秋田港全景(秋田県建設交通部)

秋田港

雄物川の河口港から始まる秋田港の築港

 秋田港は県内最大河川の雄物川の河口に開かれた港であった。かつては「土崎港」と呼ばれ、江戸期から内陸部で産出される秋田杉をはじめとする木材や、米、鉱産物などの移出港として栄えていた。1672(寛文12)年に西廻り航路が開設されると北前船も往来するようになり、多種多様な物資に加え、人や文化も盛んに行き交う日本海北部の要港として発展した。現在、秋田港周辺の土崎地区には当時の交易範囲の広さを物語る「越前」「加賀」「丹波」といった姓を名乗る人々が今も暮らしている。帆船時代と違って明治期に入ると大型船の寄港が始まった。このため、激しい季節風と河口部の移動に悩まされていた港の整備が至上命題となった。和船や帆船に比べ大型の汽船を寄港させるためには、川からの流砂が堆積し、流れが不安定な河口部の整備は緊急の課題だった。船をしっかりと係留し、安全に荷役をするための岸壁も不可欠だ。そこで、1885(明治18)年、内務省土木技師の古市公威博士の指導により土崎港初の係船岸壁「古市波止場」が完成、1902(明治35)年には小樽から工科大学教授の廣井勇博士を招いて「広井波止場」も整備された。これにより大阪、神戸、東京方面への定期航路も開設されたことから、1910(明治43)年、土崎港は第2種重要港湾に指定されるに至った。
 大正期に入ると港は雄物川との闘いの時代を迎える。それまで河川の増水が招く大災害や、大量の土砂による港の埋没に悩まされてきた県民から本格的な築港運動の声が上がった。こうした河口港の宿命からの脱却を図るため、1917(大正6)年から国の直轄事業として「雄物川改修工事」が始まった。雄物川の南側に広がる勝平山を開削し、そこに約2kmの新たな放水路を造るという画期的な一大事業だ。この工事によって雄物川本流を分流して直接日本海に流す新たな河口が開かれた。土崎港は河口から切り離され、上流から流れてくる土砂に埋まることもなく、増水による大被害も解消された。開削土砂は旧雄物川の河口部に埋立てられ、現在の茨島工業地帯70万坪が形成された。この改修工事は、着工以来22年という歳月と延べ400万人近い労働力を動員して昭和13年に完成した。このときの通水爆破の瞬間には約4万人もの観衆が集まったという。
 昭和16年、土崎町と秋田市の合併を機に土崎港は「秋田港」と改称、引続き掘込港湾工事などの整備が進められた。並行して亜鉛製錬所、火力発電所や、製紙、木材等の関連企業も相次いで進出するようになった。その後も港勢は順調に伸びつづけ、それまでの物流港湾の機能に加え、現在では工業港、産業港としても北東北の物流、経済を支える港湾にまで発展した。

ポートタワーから秋田港を望む

日本海側から秋田港を望む。写真の右上の方に雄物川の新しい河口が見える(秋田県建設交通部)

木材は古来からの主要取扱物資だ(向浜地区)

現在では北東北の重要な物流拠点となっている秋田港(大浜地区)

フェリーターミナルがある本港地区

苫小牧、新潟、敦賀を結ぶフェリーの定期航路も開設されている(本港地区)

江戸期の秋田港(旧土崎港)(秋田風俗絵土崎港/秋田県立博物館蔵)